山本権兵衛が作った海軍
 ~山県と山本の目白会談~
 


 山県と会談する 
会談は、明治26年3月16日、目白の山県私邸(椿山荘)で行われ、食餌を挟んで7時間に及んだ。
山県が、「国防に関する意見を窺いたい」というと山本は次のように答えた。
「私は明治維新の際銃を肩にして従軍しました。貴下がその頃参謀として一方を指揮したことを想起すれば、躊躇せざるを得ません。維新戦争のあと新たに一生徒となり、兵学の門に入り、海外にも遊び、戦略・戦術の何たるか、国防とは如何なるものか、海国における国防用兵の施設についていささか研鑽しました。そのあと軍務につき実地に試し、また史実を研究し、あるいは科学の進歩に対応して調査改良し、今日に至りました」
山県は、「この頃貴下が海軍で様々な改革を企て、また何か術策を弄していると、しきりに告げ口をする者がいる。また新聞にも風説が掲載されている。片言では判断に苦しむので、これについて意見を聞きたい」というと。
「私は自己一身上の陰口など意に介しません。聞き捨てにするだけです。ただ誰某が貴下に告げ口をしたと聞いたのは初耳です。これが為に海軍改革まで影響することがあれば、遺憾です」と山本は答えた。
会談はこのように始まり、権兵衛の詳細な改革要綱の説明で終わった。山県は翌日の閣議で次のように答える。
「これまで巷間伝わる情報を聞き、山本権兵衛に疑惑を抱き大奸物ではないかと疑っていたが、親しく会見することにより疑惑は氷解した。山本氏の人物を見るに思慮綿密にして堅確、細事に拘泥せず、事に当たるにその所信に向かって邁進する気概がある。この会見には大いに満足した」と述べた。
 改革進む
この目白会談が大日本帝国の将来に与えた影響はかなり決定的だった。この会談で海軍人員淘汰が決定された。
権兵衛はそのあと日清戦争中の明治28年3月、海軍省軍務局長に付き、明治31年11月には第二次山県有朋内閣の下、46歳で海相になった。それに先立つころイギリスが威海衛の租借について事前了承を求めてきた。
日清戦争は明治28年4月、下関条約をもって終了したが、その中に日本兵の血を持って占領した山東半島の要威海衛を日本軍が保障占領することが決められた。イギリスはその威海衛を譲れと打診してきた。伊藤は驚き山本権兵衛軍務局長の意見を徴した。権兵衛は直ちにイギリスの要求を了とした。これは難しい決心であったが、この先の日英同盟を考慮すれば、先見の明があったといえる。二国間の信頼関係を破壊することは簡単だが構築することは難しい。明治31年、権兵衛は海相に上りつめた。
これによって海軍将校団のトップを海相とする事は自然に成立した。だが権兵衛の晩年においては。海相を辞し首相になりシーメンス事件が起こると、むしろ個人的不利に働き、予備役編入の結果を招いた。
 筋肉質な海軍に
戦前、海軍将校団が海兵卒業生からなることは当然と思われていたが、他国においては海軍将校をこのような「海軍兵学校」卒業生だけで固めるという事態は発生しなかった。
そのうえ、海軍兵学校卒業生の数は日露戦争後においても260人前後であり、試験選考を基準とした極端なエリート集団が日本海軍の特徴となった。そのうえ、予算における陸海対等は太平洋戦争終了まで貫かれた。戦前において軍事予算は、全体の半分以上を占めた。
一人の海相の下に、わずかな海兵卒業生が国家予算の四分の一を差配できるという異常な体制になったのである。現代日本の国家公務員上級試験通過を基準とした官僚社会に酷似していた。入試競争で選抜され、エリート意識を持った少数の終身雇用の集団が国家の運命を決定できる体制になった。
ただし、この時の山県と権兵衛の主要な関心事は、海軍人員淘汰や海兵卒業生による排他的な海軍の創設ではなかった。「国防とは如何なるものか、海国における国防用兵」と権兵衛は前置きしており、話題は単に海軍ではなく国防全般に及んだであろう。団結心のある筋肉質の近代海軍こそが、玄界灘から渤海湾の制海権を掌握できると一致したのである。




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