山本権兵衛が作った海軍
 ~海軍大リストラ~
 


 人員淘汰 
第四の権兵衛の荒業は、明治26年3月の海軍人員淘汰であった。権兵衛によれば、「維新の頃に士官となり、充分な教育を受けられなかった」佐官以上の将校大量整理が目的であった。
明治初期の海軍卿や海軍大臣、西郷従道や樺山資紀は、当然のことながら海軍兵学校卒業ではなく、薩長海軍の出身でもなかった。ところがこの人員淘汰の後、海軍のトップ大臣には海軍の現役将校がつくのが慣例となった。
このときは日清戦争に向けた建艦競争の時代であり、将校のポストはむしろ著増していたにもかかわらず、将官8名、佐尉官89名、計97名が退役処分となった。この人員淘汰の対象となった多くは、旧幕臣と薩長土肥出身者であった。彼らは海軍教育を十分に受けていなかった。昭和20年8月の太平洋戦争終了まで、このような大量の将校が一時に退役を迫られたことはなく、空前絶後の出来事であった。
 機能重視で
権兵衛は海兵二期、大佐であった。この地位から将官を整理したところで、戦争になれば艦隊司令官や艦長が有利になることは自明で、軍制畑の自分がより早く昇進できるとは思わなかったであろう。自分より年長者を狙い撃ちしたり、薩摩出身者を優遇したりしたことはなかった。
彼は自分の出世を考えるのではなく、海軍の機能向上を常に考えていた。ただし権兵衛の頭に陸海軍の均衡の発想はなかった。陸海軍人の待遇面における均衡は厳しい。陸軍は一旦戦争があると、若手将校にむしろ大量の戦死者が出る。この補充は難しい。このため平時においても国家以外から生活基盤のある予備役焼香を準備する必要があった。
これに対し海軍は、常時臨戦態勢にあり、常備艦隊については、艦長以下配置は戦時だからと言って増やす必要はない。戦死者が出るときは艦の喪失であり、新たな人員配置の必要はない。そのうえ、鋼鉄艦時代になると沈没するような事態は少なくなると予想された。
 公平な人事
権兵衛の人事は公平であった。結果として、佐官以上が若返り、若手の昇進は早くなった。佐官には海外留学者が残ったが、尉官には消滅した。日露戦争以降は海外留学組の多くも退役し、海軍将校団、即ち海軍兵学校卒業者となった。海軍将校団は純粋化した。
「海軍(兵科)将校は海軍兵学校卒業者」というルールはまだ存在しなかったが、「教育の有無」で絞ったことにより尉官以上は海軍兵学校卒業者に限定され、事実上、兵科将校(航海・砲術・水雷の三科出身者)が「海軍将校団」を形成し、非常に排他的な海軍大臣をトップとする海軍将校団が確立されることになった。
権兵衛から人員淘汰を提案された西郷従道海相は、さすがに結論を出せず、奇兵隊軍監や西南戦争における参軍(野戦軍司令官)の経歴を持つ山県有朋へ相談するよう持ち掛けた。山県は権兵衛の手で推進された相次ぐ海軍改革を聞き及び、自身が関与した陸軍兵制改革(明治18年メッケル来日)と照らし合わせたかったのであろう。だが、来るべき戦争への備えとしては逆行で、権兵衛が何か私利を図っているかのように見えた。直ちに権兵衛を呼びつけた。




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