山本権兵衛が作った海軍
 ~連合艦隊を創る~
 


 38歳の海軍大臣官房主事 
樺山資紀海軍大臣は、権兵衛の破天荒な活動力に感心し、明治24年6月大臣官房主事に任じた。日清戦争勃発の3年前である。このときから明治39年1月、海軍大臣辞任のときまで、権兵衛は事実上海軍省に君臨した。38歳から53歳の14年半であり、この間に日清、日露戦争が発生した。うち大臣経験は明治31年11月からの7年3か月であり、最長記録であった。
帝国海軍の基礎はこのときにすべて作られた、そういっても過言ではない。
権兵衛の第二の業績は、明治25年11月「海軍省令部独立に関する案」の閣議提出であった。実際には有栖川宮参謀総長の反対に遭い、26年5月「海軍軍令部条例」として実現した。権兵衛の生涯の念願は「陸海対等」であった。陸軍に参謀本部があれば、海軍にも省令部があるのは権兵衛にとり当然であった。
実際には、西南戦争で参軍として海軍を率いて、鹿児島市に突入した川村純義が明治12年、「海軍参謀本部」設立案を建議し、このときには陸軍卿が反対してついえた。明治以降、日本の陸海軍の総人員比率は陸八、海二程度で推移した。これでも例外的に日本の海軍将兵数の比率は他国に比べ高い。普通、陸軍が国土を防衛し、国民に接触する。日本以外の国では、軍隊とは陸軍を指した。行政の分担としても「陸軍省」を名乗るのは日本だけで「防衛省」や「戦争省」が陸軍を担当すると同時に国防全体について総覧した。戦争が起これば陸海で任務はわかれるが、戦争そのものは一つであり、全体については一つの省が担当すべきとされた。
 軍令機関が陸海に分かれた功罪
参謀本部、すなわち軍令機関(軍隊への命令を出す)の平時における業務は戦争計画の策定であった。当然、一つの来るべき戦争に対処すべき計画は一つであるべきで、陸軍省=国防省であるのと同様に、参謀本部とは陸軍参謀本部であった。海軍参謀本部をつくることは、平時においては国策=戦争計画を別々に作ることで、もとより考えられない。
イギリスでは海軍省、アドミラルティの大臣には議会政治家が任命される。ただしその省議には職業軍人(制服組)も参議官として参加するのが通例であった。このうちから軍令部長が任命され、海軍将校団首位の座を占めた。
フィッシャーは明治37年(1904)軍令部長に任命された。この名前の職責がこの時始めてできた。むしろ日露戦争勃発に対応し、日本を真似た形跡すら感じる。フィッシャーは任命されるとグリニッジ海軍大学の教官を選んで、軍令部長の下に参謀組織を作り、陸軍参謀本部が主宰する参謀会議に参加させた。
機能は戦時における艦隊編成と出師人美発動のためのマニュアル作成であった。山本権兵衛が平時の海軍軍令部に期待したものが何かは、いまだ明確ではない。だが、その後の日本の運命を考えると、その歴史的影響は権兵衛の意図と離れ、極めて大きくなった。
軍令機関が陸海二つになると、平時の外交に重大な支障が生じる。戦争をやって勝てない相手に「戦争を辞さない」外交はできない。その反面、勝てる相手にも「宥和」外交しかできなくなる。さらに同盟や協商も、天皇への軍事「アドバイザー」が二人いて意見が異なれば、事実上アドバイスは不可能になる。
軍令部を海軍省の外に出し陸軍参謀本部と対抗する必要はなかったはずである。権兵衛はイギリスのように政治家が大臣になった場合、人事権は大臣=政治家に帰し、海軍将校団の相違に反する人事が実行されかねない。それを掣肘するには大臣とは別に制服組がトップになる職責も必要であると考えたのかもしれない。
 連合艦隊の創設
権兵衛の第三の業績は、明治27年7月、即ち日清戦争勃発時の「連合艦隊」創設であった。明治27年7月19日付の海軍省令で次のように定めた。
一、警備艦隊を西海艦隊と改称す
一、常備艦隊と西海艦隊とを以て連合艦隊を組織す
一、連合艦隊の司令長官は常備艦隊の司令長官これを兼摂す
軍令部長であった樺山資紀によって全艦艇を分散した司令官の指揮下に置くことは適切ではないため、老朽艦をも新鋭艦からなる「常備艦隊」に糾合するためとして、この省令が出された。海軍は艦隊を「予備艦隊」と「現役艦隊」に分類し、予備艦隊には老朽艦や旧式艦が配属され、平時においては練習用に供されたり燃料節約のため係留されたりする。
帝国海軍には連合艦隊または一つにまとまった艦隊という考え方があった。平時においては常備艦隊と称したが、保有の現役全艦艇を網羅するのが建前であった。日本の地勢的位置がそれを可能にした。
イギリス海軍にも全艦艇を集めた艦隊を想定することがあったが、大英帝国は日の沈むことが無い帝国であり、戦時においても平時においても、ドーバー艦隊、大西洋艦隊、地中海艦隊、インド洋艦隊、支那艦隊と分割した。
そのうえ、世界の大部分の国はブルーウオーター海軍(外洋艦隊)をもたない。大英帝国のような大規模な海軍は年頭に置く必要があり、大半の国は大洋に有力な軍港を持たず、あるいは近くにとても勝利できない大英帝国が控えている。
さらに、フランスやロシアには地勢的な制約がある。フランスの場合、艦隊を地中海と大西洋に分割するしかなく、ロシアはバルチック海、黒海、太平洋に分ける以外手段がない。アメリカも太平洋と大西洋で分割する必要があるが、帝国海軍が具体的脅威になるまではイギリスを念頭に大西洋に艦隊を集中させた。
ペリー艦隊も大西洋から来た。日本は西太平洋一つを念頭に置くことができ、戦時になれば全ての艦艇を連合艦隊として糾合できた。ただし、実質上の戦時の軍令が連合艦隊司令部から出されるのか、東京の軍令部(大本営海軍部)から出されるのかという問題も生じた。
帝国海軍は西太平洋だけに艦隊を置いた。必然的にペリーの国でもあり東太平洋に艦隊を置くアメリカと対峙した。




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