山本権兵衛が作った海軍 ~社交団から戦闘集団へ~ |
艦砲で艦に命中させることは極めて難しかった。この頃のイギリス海軍でも砲術は、「どうせ当たらない」として軽視されていた。かつ当たっても、艦自体を射抜くことは不可能とされていた。 接近する段階で双方とも艦砲を打ち合った。当時の艦砲は口径3インチ(76ミリ程度)が主流であり、弾丸は円弾、先込めであった。発射速度は3分に一発と動く目標には無力な程遠い。帆船時代の戦列艦の片舷20数門にも及ぶ艦砲の目的は、敵艦の帆を切り落とすことであった。 艦砲は当たらない。すると、実弾射撃演習は、艦長や航海長から見れば「迷惑至極」であった。実弾を発射すると艦は、黒色火薬の残渣(燃えカス)により汚れた。綺麗な艦上に貴顕を迎えることは海軍将校の重大な仕事であった。真鍮をピカピカに磨き、甲板をモップで拭くことが水兵の日課であった。
「女は載せぬ軍船(いくさぶね)」という不文律はこの時以来出来上がった。2009年、ヘリコプター母艦「ひゅうが」に女性海上自衛官が乗船するまで続いた。が、権兵衛自体は、私生活では芸者を娶り、生涯を添い遂げているのである。 権兵衛はこの頃、陸上における砲術訓練を建言し、革新的に命中させることが現実になると確信していた。芸妓乗船反対の意図は、海軍将校団の主務を「社交」ではなく、実戦への準備にすることにあった。この頃、面白いことにイギリスでもフィッシャーが同様の改革を開始していた。
発射速度が向上したが、「蒸気船」には「帆」がなく、戦隊に砲弾を命中させねばならなかった。さらに発射速度を向上させるためには、射手は砲弾装填を手短にやる必要が生じた。先込めの艦砲は、砲弾と装薬(砲身で爆発し、砲弾を空中に射ち出す)を砲口からランマーという棒で押し込める必要があり、面倒な操作であった。 海軍将校団を社交集団ではなく、戦闘集団に変えるには心意気だけでは十分ではなかった。権兵衛は、フィッシャーと同じく海軍を「社交集団」ではなく、平時戦時を問わず訓練を厭わない「戦闘集団」に変えた。これが権兵衛第一の業績であろう。 |