山本権兵衛が作った海軍
 ~社交団から戦闘集団へ~
 


 砲術の精通を目指すが 
山本権兵衛は西南戦争の最中にも艦隊勤務に精励した。目指したのは砲術に精通すること。この当時としてはまだ珍しい希望で、また砲術は「航海」よりも「坐学」が重視される。
艦砲で艦に命中させることは極めて難しかった。この頃のイギリス海軍でも砲術は、「どうせ当たらない」として軽視されていた。かつ当たっても、艦自体を射抜くことは不可能とされていた。
接近する段階で双方とも艦砲を打ち合った。当時の艦砲は口径3インチ(76ミリ程度)が主流であり、弾丸は円弾、先込めであった。発射速度は3分に一発と動く目標には無力な程遠い。帆船時代の戦列艦の片舷20数門にも及ぶ艦砲の目的は、敵艦の帆を切り落とすことであった。
艦砲は当たらない。すると、実弾射撃演習は、艦長や航海長から見れば「迷惑至極」であった。実弾を発射すると艦は、黒色火薬の残渣(燃えカス)により汚れた。綺麗な艦上に貴顕を迎えることは海軍将校の重大な仕事であった。真鍮をピカピカに磨き、甲板をモップで拭くことが水兵の日課であった。
 女を載せぬ軍船
明治14年2月、「乾行」艦に山本権兵衛は中尉として乗り込んだ際、外国使臣接待のため芸妓を小蒸気に乗せることを命じられ、いったんは応じた。ところが直後、海軍省若手将校も巻き込んで、芸妓を小蒸気に乗せるとは何事かと、榎本武揚海軍卿排撃運動が発生した。権兵衛はこの運動の中心にいたとして「乾行」艦から退艦させられた。その結果、むしろ権兵衛の名は著名になった。
「女は載せぬ軍船(いくさぶね)」という不文律はこの時以来出来上がった。2009年、ヘリコプター母艦「ひゅうが」に女性海上自衛官が乗船するまで続いた。が、権兵衛自体は、私生活では芸者を娶り、生涯を添い遂げているのである。
権兵衛はこの頃、陸上における砲術訓練を建言し、革新的に命中させることが現実になると確信していた。芸妓乗船反対の意図は、海軍将校団の主務を「社交」ではなく、実戦への準備にすることにあった。この頃、面白いことにイギリスでもフィッシャーが同様の改革を開始していた。
 戦闘集団へ
1870年代初め、蒸気船にそれまでの外輪方式ではなく、スクリュー推進方式が導入された。これで回転がシャープになった。さらにクリミア戦争のころ砲艦に駐退機が取り付けられた。それまで一弾を発射すると砲身と砲車は反動で大きく後退し、射撃手は両側に逃げる必要があり、そのあと砲車を戻さなければならなかったが、駐退機があれば、砲身だけが後退した。
発射速度が向上したが、「蒸気船」には「帆」がなく、戦隊に砲弾を命中させねばならなかった。さらに発射速度を向上させるためには、射手は砲弾装填を手短にやる必要が生じた。先込めの艦砲は、砲弾と装薬(砲身で爆発し、砲弾を空中に射ち出す)を砲口からランマーという棒で押し込める必要があり、面倒な操作であった。
海軍将校団を社交集団ではなく、戦闘集団に変えるには心意気だけでは十分ではなかった。権兵衛は、フィッシャーと同じく海軍を「社交集団」ではなく、平時戦時を問わず訓練を厭わない「戦闘集団」に変えた。これが権兵衛第一の業績であろう。




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