山本権兵衛が作った海軍
 ~海軍兵学校~
 


 海軍兵学校制度 
日本の海軍士官養成制度は、イギリスとはだいぶ異なった。兵科将校になるには海軍兵学校を卒業する以外、皇族を除けば道がなかった。山本権兵衛は海兵二期卒業だった。それ以前の世代は当然海軍兵学校を出ていない。日清戦争の多くは海兵卒業ではなかった。日露戦争の連合艦隊司令長官の東郷平八郎も海兵卒ではなく、イギリスに留学しウースター商船学校卒業であった。
旧制中学校は、現在の義務教育の新制中学とは違い、修学年限は四年または五年であった。優等生は四年でも卒業できたのである。中学を卒業すると旧制高等学校に進学した。海軍兵学校の入学資格はこの旧制高等学校入学と同等であった。学力優秀な中学生の多くは旧制高校と海軍兵学校を天秤にかけながら選択した。海軍兵学校の入学試験競争率は平均で約20倍に達した。戦前の受験戦争の中には海軍兵学校入学試験も加わっていたのである。
 陸軍との相違
陸軍士官学校本科の入学資格は、旧制中学四年または五年で旧制高校や海軍兵学校と同じであったが、一般には敬遠された。理由は、陸軍幼年学校の存在と陸大入学の二点である。陸軍幼年学校はプロイセンのカデッテンシュール(幹部候補生学校)を真似たもので、世襲が考慮されていた。すなわち入校に際して、親の軍歴が考慮され、学費についても陸海軍将校の子弟は学費が半額、戦死者の子弟は無料という補助制度があった。結果として陸軍幼年入学生の大半は陸海軍将校子弟であった。陸軍士官学校は一般の受験競争とは別格だった。陸軍士官学校への入学者は多数であり、競争倍率は高くなかった。
海軍将校の出生の目標は大佐、キャプテン、艦長になることであったが、このためには海軍兵学校卒業が唯一の条件で、海軍大学校の卒業は特に重視されなかった。これに対し、陸軍士官学校卒業生は陸軍大学校を卒業せねばエリート・コースに乗れず、将官になる道は閉ざされた。実は海軍兵学校を卒業しても将官になることは簡単ではなかった。ただ、海軍兵学校を卒業すれば、全員居心地の良い一生を送ることが可能であり、優秀な中学生は海軍兵学校に進みたかった。
この陸士・陸大選抜方式は、陸軍将校団の間に閨閥を持ち込んだ。海軍兵学校にこの色彩は全くなく、学力と体力がすべての選考基準であった。太平洋戦争期の海軍提督に閨閥があったとしても、多くは女婿を取った関係であったのは、このためである。
 アナポリスと同様
高校成績優秀者を幹部候補生として選抜するという考え方は、アメリカのアナポリス海軍兵学校と同じであり、アナポリスを卒業した松村淳蔵が導入した。海軍兵学校は、明治21年に築地から広島江田島に移転し、カリキュラムが確立したのはその頃であった。現在、同じ場所にある海上自衛隊幹部候補生学校の入学資格は防衛大学校、防衛医科大学校、大学卒業であり、いわば大学院に相当する。
現在のアナポリスの入学資格は、依然同じ高校卒業であり、アメリカの大学入学難易度の比較では1位のハーバード大学に比して、20番台と言われる。これに対し、イギリスの海軍教育の原点を作ったのはフィシャーで、1882年グリニッジ海軍大学を創設した。入学資格は海軍将校であり、事実上在職教育機関であった。




TOPページへ BACKします