山本権兵衛が作った海軍 ~海軍の実態~ |
将校が水兵を通して機械を操縦する。将校と水兵の艦内や日常生活は隔絶したものがあり、将校にはその狭い艦内にも個室があり、食事も将校食堂でとる。海軍内部では、この格差についてまず異論が出ることはない。将校と水兵の「身分格差」は絶対である。 艦内における将校団のトップは艦長(キャプテン、captain)であり、キャプテンは同時に「大佐」という階級を示した。陸軍における英語のキャプテンは「大尉」であり、概ね二百五十人の中隊(コンパニー)の将兵を率いる階級であった。海軍の小さな艦のキャプテンの率いる将兵の数はそれと大差がないが、その上には艦隊司令官しかいない。
イギリスでは、どうすれば海軍将校になれたのだろうか。植民地を含む海軍軍管区の長(帝国海軍は鎮守府長官)が、小学校卒業生から定数に従って採用を決め、海軍省出仕とさせた。そのあとは民間船舶の船員士官と同じ商船学校で教育を受け、見習士官になった。 水兵は常雇いではなく、出航するごとに期間を定めて募集するのが一般的であった。イギリス貴族子弟の多くは、イートンやウィンチヤスターの中高に相当するパブリックスクール出身だった。海軍士官への経歴はパブリックスクールからでは達成できなかった。 反面、野心的な中産階級には取りつきが良かった。また王族は例外として教育がなくても士官に任用されたので、イギリス海軍将校は王族と中産階級の集合体であり、陸軍より技術や戦術についてむしろ進取的であった。 一般に海軍士官の出世の目標は、キャプテン(大佐、艦長)になることで、それ以上の提督(将官)は艦隊を率いる長の階級であった。艦長や艦隊司令官の任期が終わると、ロンドンの海軍省軍事参議会のメンバーになった。いわば「閉職」であった。艦長が目標であったため、海軍士官は常に海に出ることを希望した。イギリス海軍将校に取り、海軍省出仕は退屈な仕事だった。 海戦のある戦争などめったに発生しない。第二次世界大戦後の海戦は、イギリス・アルゼンチン間のフォークランド紛争(1982年)以外起きていない。そこで海軍には、フリート・イン・ピーク(艦隊温存主義)という抑止力または牽制として艦隊が機能する考え方が存在している。 海軍は戦わずとも存在するだけで戦争防止に役立つとする。逆に、第一次大戦前の英独海軍拡張競争が戦争をあおったという見方もアメリカで根強いが、第一次大戦は欧州の陸戦が主であり、この考えは誤りと思われる。
ヨーロッパの王家は互いに縁戚であり、外交官の大半は貴族であった。彼らは社交界を形成し、貴婦人たちとのダンスと会食に精を出した。この中で目立ったのは金モールを飾った紺(ネイビーブルー)の軍服に身を包む海軍将校だった。彼らは若く社交界の「華」であり、社交は実戦に備えるよりはるかに重要な任務に見えた。 海軍は陸軍と異なって「艦」だけで長躯遠征でき、その間補給を必要としない。出航すれば母国と隔絶された。マルコーニによる無線機が実用化されたのは日露戦争直前であり、海に出れば夜間天体観測やクロノメーター(精密時計)によるしかなかった。 出航すれば艦内で無類の一体感が生まれるのは当然であった。また海軍士官は、航海に出れば外地勤務手当も加わり、収入は多かった。そのうえ社交界では、その若さから無類にもてたから、たいていは貴族や大富豪の娘と結婚した。 トラファルガーの海戦のネルソンに次ぎ、「最後の海の英雄」といわれユトランド沖海戦で活躍したビーティーは、シカゴの百貨店オーナーの娘と結婚した。あるときビーティーが座礁事故により艦底を傷つけたとき、その妻は「私のデービッドが軍法会議?それなら私が海軍に戦艦一隻をプレゼントするわ」と言い放ったという。 将校も水兵も航海途中、下船する機会があれば、艦長から多額の遊興費を提供されることも多かった。日本においても横須賀鎮守府長官官舎は周囲を圧倒するハーフ・ティンバー様式の洋風建築物であって、階級では鎮守府長官と同格で中将の職であった陸軍の師団長官舎の多くが木造平屋建の和風建築であるのと比較すれば、豪華さに相当の差があった。 どの国の海軍将校も、陸軍将校とは待遇で優越し、世間的には恵まれた給与を受け取っていた。第二次大戦前のいずれの海軍将校も、海軍生活について懐かしく思い出すことは、異とするに足りない。 |