山本権兵衛が作った海軍
 ~山本権兵衛~
 


 西郷と山本権兵衛 
山本権兵衛は嘉永5年(1852)、五百助(いおすけ)盛珉の三男として生まれた。曽祖父は家禄36石、薩摩藩の庭奉行であり、父は藩主の側に仕える右筆であった。権兵衛は薩英戦争に参加、さらには戊辰戦争に従軍し、鳥羽伏見の戦いから庄内まで転戦した。
鹿児島に戻ったのち明治2年(1869)、藩命によって東京に派遣された。このとき西郷隆盛から勝海舟宛の紹介状を携え、昌平黌に入学。箱舘戦争従軍ののち、出来立ての海軍操練所に入校した。明治3年、海軍操練所は海軍兵学寮に改組され、その幼年生徒に選抜された。このとき権兵衛は18歳。明治6年10月に西郷が征韓論争に敗れ下野すると、権兵衛もこれに付き従い鹿児島に戻ったが、のちの西郷の決起には賛同せず、翌年帰京した。
権兵衛が生涯にわたって尊敬したのは、西郷と乃木希典であった。孫娘の山本満喜子によれば、昭和8年12月8日の彼の死の床に飾られた二幅の掛け軸は、乃木希典の讃がついた松村桂月の書いた富士山の絵と、西郷隆盛の讃がついた泰山の富士山であったという。満喜子はこの二幅の掛け軸を父の清が戦後売り払ったことを怒っている。
山本家にはこれを除いてめぼしい動産はなかったようである。権兵衛が海軍大将としての給与以外に頼らなかった清廉潔白な生活ぶりがうかがえる。
この逸話は、権兵衛が生涯尊敬したのが西郷と乃木の二人であったことと、清貧な生涯を送ったことを物語っている。
 良き軍人は良き予言者に
権兵衛は自分をよく引き立て、生涯尊敬した西郷が挙兵したときなぜ参加しなかったのだろうか。権兵衛は戦略家として造艦者として軍政家として極めて優秀な軍人であった。陸海のいずれの軍人にも「予測」「予言」する性癖がある。これは彼らの職業から仕方のないことである。
例えば、現代の「哨戒(パトロール)艦」の艦長はソナーに聞こえた一音から敵味方を峻別し、敵対する物体が接近すれば、直ちに退避するなり射撃するなどの措置を講じる必要がある。失敗すれば自らの艦は撃沈される運命になる。
一つの「音」から未来を予想し、命令させねばならない。あらゆる経験と生来の「カン」も必要である。全部マニュアルで処理できるものではない。こういった事態は海軍に限らないが、潜水艦や駆逐艦などの場合、艦長の役割は、乗員すべての運命を支配し極めて重いと言わざるを得ない。この点で、軍人は近未来予想の専門家である。
「予言者」は歴史家と正反対である。歴史家とは、史料批判が終わったいくつもの事象について、全部を満足させる結論を導くことが職責であり、「予言」「一つの事象からの結論」は避けなければならない。多くの軍人が「歴史家」になると失敗することは自然である。軍人の自伝がつまらないのが多いのはこれが理由である。
権兵衛はその点で極めて優秀な予言者であった。西郷挙兵の直前、権兵衛は何か予想したい違いない。それは「西郷の敗北」であろう。優秀な軍人は決して「戦争の大義」や「正義感、情熱」に踊ったりしない。必ず勝敗を予想する。なぜ西郷郡敗北を予想したかと言えば、それは西郷軍に「海軍」がなかったためである。
のちに、陸軍軍人の多くが2.26事件を筆頭にクーデターを試みるが、いずれも失敗した。理由は「海軍」がないためによるところが大きい。日本のように海岸線の長い国では、海軍がなければ占領地が安定しない。西郷郡も熊本城を包囲し田原坂で激戦を交わしたが、八代に上陸され潰走に陥った。そのあと、策源地の鹿児島市に直接上陸されている。これでは陸戦で精強を誇っても、「勝利」は不可能である。
 東郷平八郎登用の理由
権兵衛は日露戦争時の連合艦隊司令長官に、東郷平八郎を任命した。この理由については「東郷は運のよい男ですから使いました。ご安心ください」と明治天皇に語ったことが有名である。
本来、連合艦隊司令長官人事は、明治憲法下においては、天皇の専権事項であり、実質的に海軍大臣推薦に天皇が応じるにせよ、権兵衛が「任命の理由」と言い切るのは僭越のそしりを免れない。これが事実であるならば、山本権兵衛の日露戦争前の勢威に驚くべきであろう。
加えて、過去に幸運であった提督や将軍は、実際の戦争において幸運に恵まれるのであろうか?もちろん、日露戦争の海戦において、連合艦隊がいくつもの幸運に恵まれたのは事実である。だが、この幸運は権兵衛のいう「東郷は運が良かった」せいではなく、むしろ権兵衛を頂点とする「帝国海軍」将校団の営々とした努力によるところが大きかった。
権兵衛は、「海軍将校団」を率いる立場にあり、人事的に見る目があったことを誇りたかったのであろう。




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