山本権兵衛が作った海軍 ~海軍の必要性~ |
ペリーが江戸湾口の浦賀に来航したとき、うたわれた有名な狂歌である。嘉永6年(1853)7月、たった四杯=四隻の黒船は日本中を驚かせた。幕閣を震撼させ、翌年日米和親条約、四年後には日米修好通商条約を締結せざるを得なくなった。 アメリカにとってペリー来航は「偉大な」成功だった。ペリーの位は准将(コモドール)で、米海軍は1862年まで提督を持たず、准将が最高位であった。四隻の艦隊を九か月もの長期間にわたる大航海ののち「砲艦外交」の目的で派遣することは前例がないことであり、アメリカの不退転の決意がうかがえる。フィルモア大統領は、日本を開国させるためには「砲撃」をもペリーに許可していた。ペリーは来日前、オランダのライデン大学で教えていたシーボルトを招き、教えを乞うており従来の日蘭貿易を十分研究していた。これに限らず、アメリカは事前に日本を十分に調査して「砲艦外交」を実行していたのである。 当時のアメリカは、対メキシコ戦争(1846~1847)と南北戦争(1861~1865)の間に相当する微妙な時期で、ペリーも対メキシコ戦争でリオグランテ河封鎖作戦に参加した。この戦争によるアメリカの戦果は莫大で、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニアを獲得し、現在のアメリカの版図をほぼ達成した。 その一方で開拓は道半ばで、カリフォルニアにはまだ10万人しか人口がおらず、アヘン戦争やアロー号戦争という中国と英仏の間で起こった戦争に参戦を慫慂されたがこれを拒絶。ペリー砲艦外交を実行した理由は領土よりも、ヨーロッパ諸国に先んじたいという独特の気分以外ない。 この砲艦外交時、ペリーが久里浜に上陸させた水兵はわずか5百名。この人数で日本に脅威を与えることが可能になったのは何故か? 幕府はとるに足る常備軍を持たなかったが、それでも江戸市中で五千を超える武士を集めることができたはずである。全国には士族が三百万いて、青年男子だけでも50万以上いたはずである。いくら兵器が劣っても50万は五百に勝利できる。そのうえ、鎖国放棄が反幕気運に導くことは必至と予想されたはずである。自らの統治基盤が崩壊することは十分予想できたうえで戦わずに幕府は譲歩した。この理由は「海軍」であった。 19世紀に限って、海軍が背景にある五百は50万を圧倒できた。幕府は数多くの植民地化されたアジア・アフリカの諸国と異なり、この拒否した場合の結末を予測できたのである。一方、幕府の譲歩は今日から見て決して致命的なものではなく、日本の独立を損なうようなものではなかった。
ヨーロッパ諸国はあっけなくアジアやアフリカで広大な植民地を獲得できた。実際には船舶で海浜部を占領し、奥地を支配した。現在のアフリカ各国が少数を除いてすべて海に面しているのは、旧宗主国の統治領域を示し、19世紀の事情からであった。船舶は徒歩より確実に早く移動でき、艦砲は陸上陸より強力だった。海軍はある地点にいち早く兵力を上陸させ、都市を無差別砲撃できるのである。たとえ内陸側が一定の兵力を配備し、上陸に備えても、船舶は用意に陸兵を側面や背後の地点に上陸させることができる。薩英戦争(1863)では、薩摩藩は3万の兵士を集めることができたが、英艦の鹿児島市街無差別砲撃により大火となり敗北を認めた。 海軍には海軍でしか対抗できなかったのだ。海軍を持つヨーロッパ人が少数の兵隊で現地人を圧倒できたのはこれが理由である。 アヘン戦争、アロー号戦争で清国は英仏に大敗した。その理由は極致における兵力劣勢のためであった。清国海軍は材木の固まりで、帆は蓆、索はラタンであった。乗員は百人ほどで、兵装は乗員のもつ弓と六門の小さな火砲だったらしく、全体として軍艦というより兵員を乗せた船に過ぎなかった。一方の英国軍艦は、帆船で木骨木皮、わずか二三隻が外輪蒸気推進だった。清国が近代化への端緒を日本より先につかんでいたのだが、その後の歩みは対照的だった。 不平等条約締結が必ずしも植民地化や半植民地化を意味しない。日中両国の近代化の差は、とりわけ起業や言論の自由を認めたか、儒教流官僚政治を廃止し法治国家に転換できたかによった。清国は西洋文明、とりわけ軍事制度と政治制度の導入には慎重であった。 清国は、模倣兵器の自製、兵器輸入だけで十分対抗可能であるとして、西洋式軍隊制度を拒む「中体西用」の方針をとった。 海軍の建設は簡単ではない。軍艦を輸入し、砲術長と機関長を雇い、砲撃が出来、蒸気機関を動かせるようになっても、それだけでは役に立たない。国家の地勢にあった艦船、新造船・修理を担い兵員を養わせる人口、そして何よりも海軍を支える専門家集団=海軍将校団が必要であった。 自国の置かれた環境を理解し、地勢的条件を研究し、独創的かつ最新鋭の技術を取り入れなければならなかった。この技術革新の動向を見通して、艦を設計・発注し、それに適した艦隊を創りあげる指導者、それを動かす将校団を創出せねばならない。 大日本帝国にはそれをやり切った人物が存在した。山本権兵衛である。 |