景勝と関ケ原の合戦
 ~家康の釈明要求を拒否~
 


 堀家との確執
これまでの家康の文言には、景勝の一連の領国固めを容認することは見えても、それをとがめだてるような趣は全くない。景勝としては思い当たる節がなかったであろう。だが、禍根は意外なところに存在した。実は、景勝に具体的な謀反の嫌疑ありと判断し、これを家康に報告したのは、景勝のもとの居城である、越後春日山城主堀秀治の老臣、堀秀政だったのである。彼は、景勝の老臣直江兼続が、会津への転封の際に半年分の年貢を取り立てておきながら、一向に変換しないのを憤り、しきりに会津の内情を偵察していたのだった。
景勝は当初、この命を黙殺し、重ねての上坂催促をよそに領内諸城の修築を続行した。むしろ普請の規模を最大限に拡大し、2月10日には会津若松城が手狭である事を理由に、若松城の西南の神指原に領民8万人を徴発し、新城構築の大工事さえも開始したのだった。
こうした折の3月、年賀の為に大坂に上っていた老臣の藤田信吉が帰国し、復命を兼ねて景勝の上坂を諫言したことから、またしても新たな火種が発生した。信吉の真意を疑う宿老の直江兼続からこの諫言を反対された信吉が、身の危険を感じてか、あるいは事前に家康との間で話ができていたのだろうか。会津を出奔して家康を頼るという事件が起こったのである。信吉は当然ながら、事の次第をつぶさに訴え出た。
  家康、景勝に釈明を促す息子
この好機を、家康が逃すはずがなかった。これまで、五大老・五奉行の面々を挑発してはその真意を探り、臣従の是非を峻別しつつ、兵を動かす機会を窺っていただけに、屈服した前田利長とは違って、絶好の標的足り得たわけである。家臣の伊奈昭綱と五奉行の増田長盛の家臣、河村長門の両名を詰問使とし、早速4月1日、会津へ下向させたのである。実のところ、家康は自ら軍勢を率いて景勝を討つつもりであったが、嫌疑が曖昧ということで五大老の宇喜多秀家や毛利輝元、それに五奉行らの意見を取り入れざるを得なかったのである。とにかく家康は、この両名の使者を通じて、景勝が新道を開き、新城を築き、さらには隣境を騒がしている理由を質す一方、上坂しての釈明を重ねて促したのであった。さらなる効果を上げるため、相国寺豊光院の禅僧西笑承兌を頼んで景勝の宿老直江兼続宛に八カ条の書状を出させ、上坂陳弁の説得をも試みたのである。
もっとも、伊奈昭綱ら詰問使の下向期日については、この年(慶長5年)4月27日付で島津維新(義弘)に宛てた島津龍伯(義久)書状に、「3月10日に伏見を御打ち立ち、会津へ下向候」とある。3月10日というわけだが、これが本当であれば、家康は藤田信吉の会津出奔と讒訴を待たずして、景勝をとがめだてていることも考えられ、事の初めから挑発的であったことが一層明確となる。
  家康の挑発を受けて立つ息子
家康の思惑どうりか否か、5月3日に大坂へ戻った伊奈昭綱は、景勝の上洛拒否を復命した。これと前後して承兌の書状に対する景勝の老臣兼続の返状ももたらされたが、こちらは極めて強硬な姿勢で貫かれていた。4月14日付で全文16カ条からなる長文のものだが、その文言は次の通り。
「千言万句も必要ない。景勝には少しも別心などありはしない。上洛については、出来ないように仕組んであるのだから、是非に及ばぬ」
「讒人のいうことを実義として、道理に背くような企てをしているのだから、仕方があるまい。誓詞も堅約もいらないだろう」
いわゆる「直江状」というものであるが、兼続とすれば相手(家康)が仕組んだ罠だから、乗るに乗れないというものだった。釈明するどころか、むしろいわれなき疑いをかける家康を、言葉巧みに非難した文言である。妥協の余地など微塵もない。
事ここに至って家康は、5月3日、下野の伊王野城主、伊王野資信に「やがて出馬して討ち果たすべし」と、景勝の討伐を公言するとともに、6月6日には、大坂城西の丸において進軍の部署を定めたのであった。
結局のところ景勝は、謀反の事実を否認したまま討伐を受けることになったわけだが、事の真相は直江兼続が語っている通りであろう。転封に際して城や砦を修築し、道路を整備するのは、当代の大名にあっては当たり前のことである。これを謀反とみなすなら、いくつ首があっても足りないに違いない。何より当の家康自身、関東の転封にあたって江戸城を修築し、河岸や道路を普請しているではないか。
こうした景勝の順法行動を詮索する前に、むしろ忠義面とは裏腹に悉く太閤の遺制を破ってきている張本人が、ほかならぬ家康であるから、それこそが問題とされるべきである。悪代官が善人を裁くに等しいこの度の景勝に対する上洛命令では、従えないのが道理であった。




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