景勝と関ケ原の合戦 ~家康の釈明要求を拒否~ |
景勝は当初、この命を黙殺し、重ねての上坂催促をよそに領内諸城の修築を続行した。むしろ普請の規模を最大限に拡大し、2月10日には会津若松城が手狭である事を理由に、若松城の西南の神指原に領民8万人を徴発し、新城構築の大工事さえも開始したのだった。 こうした折の3月、年賀の為に大坂に上っていた老臣の藤田信吉が帰国し、復命を兼ねて景勝の上坂を諫言したことから、またしても新たな火種が発生した。信吉の真意を疑う宿老の直江兼続からこの諫言を反対された信吉が、身の危険を感じてか、あるいは事前に家康との間で話ができていたのだろうか。会津を出奔して家康を頼るという事件が起こったのである。信吉は当然ながら、事の次第をつぶさに訴え出た。
もっとも、伊奈昭綱ら詰問使の下向期日については、この年(慶長5年)4月27日付で島津維新(義弘)に宛てた島津龍伯(義久)書状に、「3月10日に伏見を御打ち立ち、会津へ下向候」とある。3月10日というわけだが、これが本当であれば、家康は藤田信吉の会津出奔と讒訴を待たずして、景勝をとがめだてていることも考えられ、事の初めから挑発的であったことが一層明確となる。
「千言万句も必要ない。景勝には少しも別心などありはしない。上洛については、出来ないように仕組んであるのだから、是非に及ばぬ」 「讒人のいうことを実義として、道理に背くような企てをしているのだから、仕方があるまい。誓詞も堅約もいらないだろう」 いわゆる「直江状」というものであるが、兼続とすれば相手(家康)が仕組んだ罠だから、乗るに乗れないというものだった。釈明するどころか、むしろいわれなき疑いをかける家康を、言葉巧みに非難した文言である。妥協の余地など微塵もない。 事ここに至って家康は、5月3日、下野の伊王野城主、伊王野資信に「やがて出馬して討ち果たすべし」と、景勝の討伐を公言するとともに、6月6日には、大坂城西の丸において進軍の部署を定めたのであった。 結局のところ景勝は、謀反の事実を否認したまま討伐を受けることになったわけだが、事の真相は直江兼続が語っている通りであろう。転封に際して城や砦を修築し、道路を整備するのは、当代の大名にあっては当たり前のことである。これを謀反とみなすなら、いくつ首があっても足りないに違いない。何より当の家康自身、関東の転封にあたって江戸城を修築し、河岸や道路を普請しているではないか。 こうした景勝の順法行動を詮索する前に、むしろ忠義面とは裏腹に悉く太閤の遺制を破ってきている張本人が、ほかならぬ家康であるから、それこそが問題とされるべきである。悪代官が善人を裁くに等しいこの度の景勝に対する上洛命令では、従えないのが道理であった。 |