景勝と関ケ原の合戦 ~景勝の不運~ |
確かに故郷の越後を離れる寂しさはあっただろうが、戦略的にも奥羽の要に位置し、すぐ北の伊達や最上、関東の徳川家康を扼する立場にあったから、まさに重責でこそあれ、決して左遷などではなく、それなりの満足感は得られたはずである。 だが、秀吉はこの年の8月18日に世を去ってしまった。訃報の知らせを会津で受けた景勝は、この年の9月17日に会津を出立すると、10月には山城の伏見に至って、翌4年の7月まで当地に滞在した。 この間の中央政局が混乱を極めたため、とても早期の帰国などできなかったというのが真相である。何しろ、太閤秀吉の遺制とされた私的婚姻の厳禁の置目(規約)に、家康が早々と違背した事実が露呈し、石田三成ら五奉行による家康処罰の問題が口火となり、政権の内部に繕いようのないひび割れが起こっていたからである。この問題そのものは、慶長4年(1599)2月5日に家康が自身を除く五大老4人と、五奉行全員に対し、①婚姻に対する警告を了承したこと、②太閤の置目を遵守すること、③この度の事を遺恨に思わなうこと、など三カ条からなる起請文を出したことでひとまず決着を見た。
三成は伏見の家康邸に逃れて事なきを得たが、この結果、家康の裁定によって三成の奉行解任と近江佐和山へ蟄居することが決まり、13日には家康自ら私邸から伏見城の西の丸に移って、豊臣政権を事実上代行する形となった。 ここに朝鮮から帰国後、伏見や大坂にあった宇喜多秀家や毛利輝元をはじめとする諸大名の帰国が実現し、景勝もこれらにならってようやく帰国が可能となったのであった。会津に到着したのは8月10日とされる。 したがって、転封からここに至るまで、景勝の領国経営は不充分な状態のままであったといえよう。当然ながら帰国後の景勝は、早速懸案の領国経営に着手した。 この時の景勝の心理状態は、8月10日付で彼に宛てられた徳川秀忠の書状に次のようにある。 「御下国について、その筋にお通りなさるる由に候。ここもと(当方)にほど近き義に候あいだ、御立ち寄りなすべきと存じ候ところ、直ちに御下りの由、一段と御名残多く存じ候。さりながら、久々にて御下向の儀に候条、御急ぎの段、もっともに存じ候」 秀忠の近くを通りながら、挨拶の時日も惜しまれるほどに帰国を急がれていたという意味に他ならない。家康との関係を考えれば、秀忠への挨拶は必要でこそあれ、無意味なものでは決してない。むろん、この時期、景勝が家康と干戈を交える事になるといった予想はしにくかったであろう。景勝はやはり一途に帰国を急いだだけであろう。
「御報(景勝からの知らせ)披見せしめ候。当表(京都・大坂)いよいよ相かわる儀なく候あいだ、御心安かるべく候(御安心されたい)。そこもとの仕置、仰せつけらるるの由、もっともに候」 とみえ、前月(9月14日の家康書状)に続いて、景勝が家康に近況を報告している事実について知られる一方、彼が国許で政務に邁進している様子について明らかとなる。 もっとも、この書状で家康は「当表にあっては一段と平穏であるから安心されたい」と述べていることは事実に反する。変わりがないどころか、8月28日をもって前田利家の嫡子利長が秀頼の傅役という大任を放棄して国許の金沢へ帰ったあと、家康自身は9月27日に大坂城西の丸に入城して秀頼を奉戴する建前をとったうえで、城内の綱紀の粛正と反家康派の処罰を行い、利長らを謀反の嫌疑で討伐する策を温めていた。 このため、まず利長と縁戚にあたる細川忠興が11月、太閤の遺制に反して家康に忠誠を誓い、利長も母親の芳春院を人質として徳川氏に忠誠を誓うことになったのだが、こうした家康の覇権主義に根差した膨脹策は、会津の景勝には正確に伝わらなかったのだろうか。とにかく彼は領内諸城の修復や新城の建設など、普請を中心に国づくりに励もうとしていた。 ところが、そうした矢先の慶長5年(1600)正月、彼の予期に反していたであろう。家康から突然の召喚命令が出たのである。陰謀の疑いがあるから、釈明の為に西上せよと迫られたのである。 |