景勝波乱の生涯
 ~父政景の死~
 


 誕生
上杉景勝は、弘治元年(1555)11月27日、坂戸城主長尾政景の二男として生まれた。幼名卯松、のち喜平次顕景と称した。母は上杉謙信の姉仙桃院である。
謙信の姉である仙桃院が長尾政景のもとへ嫁いだのは、次のような事情による。
天文5年(1536)守護代長尾為景から守護代長尾家を相続した兄の晴景は、一族の坂戸城主長尾氏を警戒し、姉仙桃院を長尾房長の嫡子政景に嫁がせた。ところが、天文17年、19歳の謙信が兄晴景に代わって春日山城主となると、長尾房長・政景父子は謙信に背いた。天文19年(1550)のことである。謙信にとって、姉の夫を討つことは辛かった。だが、一族内の争いは一刻も早く片づけなければならない。
謙信は翌天文20年(1551)8月1日を坂戸城総攻撃の日と決め、通告した。驚いた房長・政景父子は謙信に誓紙を送り降伏した。謙信は許すつもりがなかったが、姉が政景に嫁いでいること、母虎御前の悲しみを見るにしのびず、許すことにした。
政景は天文20年降伏後は、謙信政権の中枢を担った。謙信は永禄4年(1561)8月29日、信濃川中島へ出陣する際と、同5年11月24日関東へ出陣する際、政景に春日山城の留守を命じている。
  政景謀殺?息子
ところが、景勝が10歳になった永禄7年(1564)7月5日、大事件が起こった。
政景が琵琶島城(柏崎市)の宇佐美定満を招き、野尻池で舟を浮かべて遊宴を催した。酒に酔い、興に乗った二人は池に飛び込み、遊泳を始めた。池の水は思ったよりも冷たく、酔いも手伝い、心臓麻痺でも起こしたのか、二人とも溺死してしまった。
政景は長尾一族でも特に謙信の姉婿であり、武勇知謀の勇将であったので、非傷の涙を流さぬ者はいなかった。政景39歳、定満76歳であったという。
だが実は、政景は定満に殺されたのではないか、そして定満も一緒に死んだのではないかという見方が根強い。溺死した政景の肩の下に刀で斬られた傷あとがあったといい、いずれにせよ事件の真相は闇の中である。謙信が依然として心服しない政景を定満に命じて殺害させた可能性もある。
  謙信の養子に息子
景勝は父政景の死後、謙信の招きで母、姉妹と共に春日山城に移り、謙信の養子となった。謙信は特に景勝をかわいがり、その成長ぶりを見守っていた。関東在陣中の永禄5年(1562)2月13日、8歳の景勝の書の上達を褒め、習字の手本を書き送っているほどである。
景勝は天正3年(1575)1月11日、21歳の時景勝と改名し、上杉弾正少弼に任じられた。この官名は謙信が越後国守の座に就いて4年目の天文21年(1552)4月23日に後奈良天皇から賜わったものである。このことから、謙信は景勝を自分の後継者にするつもりでいたらしい。
天正3年2月16日、謙信は諸将の軍役を定めた。いざ出陣というときの動員名簿である。この「上杉家軍役帳」には、謙信麾下の有力武将39名と、出陣の際軍役として出さなければいけない槍3609挺、手明(兵糧を積んだ馬を引く兵士)650人、鉄砲316挺、大小旗368本、馬上(騎馬兵)566騎の5514人が記されている。
この中で景勝は、御中城様と呼ばれ、一門の筆頭に位置し、槍250挺、手明40人、鉄砲20挺、馬上40騎の375印を負担した。
これより少し前、元亀元年(1570)謙信と北条氏康が和睦した際、氏康の七男氏秀が養子となり景虎を称した。景虎の正室は景勝の姉と思われる。この景虎の存在は、やがて景勝にも大きな影響を与えるどころか、とんでもない波乱万丈を招くことになるのである。




TOPページへ BACKします