景勝波乱の生涯 ~御舘の乱~ |
景虎は小田原城主北条氏康の七男として天文23年(1554)に誕生した。幼名を氏秀と言い、元亀元年(1570)謙信と氏康とが和睦した際、人質として春日山城にやってきた。時に17歳。謙信は氏秀を人質としてではなく養子として、自分の幼名「景虎」を名乗らせた。 さらに姉仙桃院の娘を嫁し、春日山城二の郭に住まわせた。このことを聞いた氏康は、謙信のとった待遇を大変喜び礼状を送っているほどである。恐らく謙信は、関東管領職を景虎に継がせるつもりだったのだろう。 謙信死後の3月15日、景勝は謙信の遺言と称して春日山城の実城(本丸)・金蔵・兵器蔵を占拠した。3月24日には、謙信の後継者である事を内外に報じた。景勝はいち早く、春日山城中の在庫金約3万両を手中に収めた。内訳は利平之金(町人などへの貸付金)、買金(買入れ金)、所々より参金(運上金や贈答金)、土蔵在金(貯蓄金)であった。この大金が、謙信の大遠征を可能にしたのである。
御舘は上杉憲政の館であったと同時に、上杉謙信の政庁として公的に使用された。御舘を中心にした地域が越後府中だった。ここには上杉家の菩提寺至徳寺、足利尊氏発願の安国寺、御舘の鬼門鎮守の府中八幡宮、上杉謙信建立の善光寺、聖武天皇の越後国分寺、越後一ノ宮居田神社などの寺社があった。 5月16日、景虎方の三条町奉行東条佐渡守が春日山城下の春日町に火をかけ、3千軒を焼き払ったという。次いで6月11日、両軍は大場・居田ヶ浜、府内で戦った。景勝は御舘の南、応下橋まで6千軒を焼き、付近一帯を焦土とした。13日にも攻撃を加え、御舘を本丸だけにしたという。 景虎の兄氏政は、姉の主人である甲斐の武田勝頼に景虎救援を要請した。5月29日、勝頼は氏政の要請を受諾し、景虎救援のため2万の大軍を率いて信越国境に兵を進めた。 一方、景勝は勝頼を敵に回す事の不利を悟り、使者を勝頼のもとへ派遣して和議を求めた。その際、景勝が勝頼の寵臣長坂釣閑斉・跡部大炊助を通じて勝頼に東上野の地と黄金1万両を贈って和を求めたという。 勝頼は氏政が景虎救援に出陣しないことに疑念を持ち、6月7日景勝の要求を入れて和睦した。その後勝頼は越後に入り、景勝と景虎との和議を進めた。 8月29日、景勝は和議の御礼として、勝頼に太刀一腰、馬一匹、青銅千疋を贈って謝した。一時、両者の和睦が成立したが、間もなく破れ、8月28日、勝頼は兵をまとめて帰国してしまった。 9月初め、景虎の兄北条氏照と氏邦は、景虎を救援するため関東軍を率いて越後に侵入し、景勝方の諸城を攻略した。9月末、氏照は重臣を樺沢城と御舘にとどめて帰国する。 12月23日、景勝は勝頼の妹菊姫と婚約した。菊姫は武田信玄の五女で、永禄元年(1558)に誕生した。天正7年(1579)10月20日、春日山城に輿入れしている。
3月17日、御舘は景勝軍の総攻撃を受け、あえなく落城した。このとき、前関東管領上杉憲政は景虎の長男で9歳の道満丸をともない、和議仲裁の為春日山城へ向かう途中、景勝の兵に斬殺された。 敗北した景虎は、兄氏政のいる小田原城へ逃亡しようと、鮫ヶ尾城に立ち寄った。ところが城主堀江宗親の謀反にあい、3月24日、もうこれ以上逃げきれないと悟って、腹を切った。時に26歳。異郷の地で露と消えた景虎の最期が哀れでならない。 おののちも、越後各地で戦闘が続いていた。景勝は天正8年(1580)4月に本庄秀剛の栃尾城を、7月に神余親綱の三条城を、翌天正9年2月に北条輔広の北条城等を攻略した。ここに謙信死後3年間に及んだ動乱も、景勝の勝利で終わった。勝利を得た景勝は、謙信の遺領を相続して越後の大名となった。 |