1黒田如水の魅力
企画力より統率力

    策より器
秀吉がその生涯で最も輝かしかった時期は、信長の将校として中国地方攻略戦にはげんだ数年間であろう。この時代、秀吉の左右にあって諸事きびきびと取り運んだ如水は、秀吉の参謀とも懐刀ともいわれた。秀吉の重臣・蜂須賀正勝は、当初如水は悧巧すぎて油断のならない者だから、近づけるべきではないと秀吉に進言した。秀吉はこれを竹中半兵衛にはかると、竹中は「毒薬は変じて良薬となることもあります」と、如水をもちいることを勧めたという。
竹中病没後は、如水が完全に秀吉の参謀として活躍している。信長が本能寺の変で横死し、その変報がもたらされるや、如水は秀吉を励まして毛利氏と和議を整え、取って返して山崎に明智光秀を討つことに成功した。いわゆる「中国大返し」に果たした如水の智略の冴えは、改めて言うまでもない。
こうした印象からは、如水が権謀術数、油断のならぬ策士、参謀・懐刀という印象が濃くなってしまうが、あくまでも如水の一面に過ぎない。如水のより大きな特徴は、実は将帥としての能力である。多々ますます弁ずで、多くの部下を手足の如く動かす、将に将たる能力こそ、その最大能力といえる。
如水が関ケ原の戦いの際、寄せ集めの浪人たちを率い、目覚ましい活躍をやってのけたのを見ても、その組織力・統率力の確かさがわかる。また、如水は士民のためには明君であり、仁君であった。普段から部下に慕われていたからこそ、いざという時には部下は火の玉のようになって働いたのである。
    用意周到な家臣統率術
智恵の多い者は人情に薄いものが多いが、如水はなかなかの人情家であった。
あるとき、如水が嫡子の長政に言い聞かせたことがある。
「人を手討ちにするということは、重大なことである。殺さなければならぬような罪を、犯させないようにせねばならぬ、この心得を忘れてはならぬ」(黒田家譜)
長政も一流の将であり名君ではあったが、上意討ちを二度している。これに対し如水は、人を死罪にしたことは一度もない。殺伐な戦国乱世を生き抜いた人としては、珍しいことである。
またあるとき、如水は長政にこう言い聞かせた。
「大将たる者は、威がなければ万民のおさえがなり難い。しかし、これを誤って解釈し、わざと威を張ろうとすれば、臣下・万民に疎まれて、家を失い、国を亡ぼすのだ。まことの威とは、まずその身を正しくし、臣下にも礼をもって接し、理非賞罰を明らかにすること。そうすれば、おのずから臣下・万民に慕われて、上を侮り、法を軽く思うものはいなくなる。これがおのずから具わる威で、まことの威というものだ」(黒田家譜)
如水は、常に家臣の性行について調査し、その能力に適合した使い方をした。その一例を示すものに、「家中間善悪の帳」と題するメモがある。これは、如水が家臣の一人一人について、その交遊関係を調べたものである。そこには、ウマの合うもの、合わないものが区分してあり、仕事をさせるにはウマの合う者同士を組み合わせることによって、彼らが楽しく働いて自ずから能率を上げるようにとの史料なのである。
如水が家臣を巧みに操縦し、力を尽くした裏には、このように周到な準備があったのである。





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