1黒田如水の魅力 腕力より知力 |
如水の得手不得手 |
戦国の世では、槍一筋の功名で、いかなる大身にも成り得たし、そうした豪傑の中から大名に成りあがっていた者は多い。ところが如水という人は、多くの戦争指揮はしたが、自ら槍を取って戦っての功名というものはほとんどなかった。武将として名を成しながら、これは珍しいケースである。 「茗話記」というものに次のような逸話がのせてある。 豊臣氏の天下が定まったのちのこと、如水が大坂天満の邸に、心やすい人々を集めて歓談していた時、かつて賤ヶ岳の七本槍の一人で、加古川城主(1万2千石)になっていた糟屋武則という者が、無遠慮にも如水に向かって、「貴殿の武名は世に隠れもないのに、敵将の首をかいたり、軍記を奪ったなどの功名を聞いたことがない。そういうことは本当になかったのか」と聞いた。これに対し如水は、「人には得手と不得手がある。私は若いころから、槍をふるい、刀を取って敵と渡り合うのは不得手であった。しかし采配を取って、一度に多くの敵を討ち取るのは得手であった。これは諸君がよくご存じのはずで、改めて説明を要しないであろう」と言ったという。 如水は乱世を渡るのに、腕力よりも知力をもってしたのである。そこに如水の真骨頂を見ることができる。如水は家臣の育て方、使い方が巧みであったから、彼の麾下には武勇の士が多かった。彼らが如水の手足となって働いたのである。 |
勇猛な士が多かった黒田家 |
如水の麾下で重臣の筆頭といわれるものは栗山善助であるが、彼は15歳で初陣して以来、戦場での功名は11度、そのうち5度は勇士としての働きであった。重臣の第二に擬せられるのは井上九郎右衛門であるが、彼は関が原時の如水の軍事行動の際、別動隊を率いて杵築城の危急を救い、石垣原の決戦では自ら戦場を馳せている。 重臣の第三は母里太兵衛で、「日本一のこの槍を、飲み取るほどに飲むならば・・・」の「黒田節」に唄われた豪傑である。秀吉は彼を自分の旗本にしたいと如水に申し入れたが、彼は如水のもとを離れるのを厭い、如水もあえて彼を手放さなかった。 黒田家が大をなしてから、この栗山・井上・母里の三人は、一老・二老・三老と呼ばれて尊重されたが、これに次ぐ重臣たちにも豪傑が多く、栗山らを含めて俗に「黒田二十四騎」といえば、黒田家を代表する勇将として語り継がれ、のちに黒田家六代藩主継高の命で、彼らの略伝が撰せられ、画帳も制作されたほどである。 豪傑といえば、特に著名なのは後藤又兵衛である。彼は兵機を察するのに明敏、兵法にも通じていた。朝鮮役では、この後藤と黒田三左衛門と母里太兵衛の3人が、一日交替で黒田家の先鋒を勤めた。後藤は普州攻めに先登し、このため、加藤清正の感賞を受けた。関ケ原役でも彼は合渡川の先陣をなし、決戦の日には石田方の勇将・渡辺新之丞と渡り合い、熱闘の末、これを撃退して味方の勝機を作った。 このように黒田家には、音に聞こえた勇将がひしめいていたが、如水その人は武張ったことは苦手であった。腕力が必要な時は、麾下の将兵が水火をも厭わぬ働きをした。これは彼らが、如水の知己の恩を感じていたので、己を知る者のために死せんとしたからであるが、如水の平素の薫陶・教育が実を結んだわけである。如水は督戦能力にも勝れていて、将に将たる器であった。 |