1黒田如水の魅力 遅れてきた名優 |
合理的主義者如水 |
黒田如水は秀吉の参謀として天下統一に最大級の貢献をした人物である。にもかかわらず、如水はその豊臣家の末路に際しては冷たく、もっぱら利己的・打算的に動いたということで、徳義にもとるという見方をされがちである。関ケ原合戦時には家康方として九州で転戦し(異説あると思う)、息子の長政に至っては家康陣営で最大級の活躍をして、徳川方に大勝利をもたらしている。もっともこれは、いわゆる太閤恩顧といわれる大名たちの大半がそうであったのだが、非凡な能力があったとされる如水であるからこそ、その点が特に問題とされたのだろう。 しかし如水としてみれば、一度しかない人生なのだから、己一個の才腕を存分に発揮する機会があれば、義理や人情などにとらわれず、これに賭けてみて何が悪いのかということであろう。秀吉には浅からぬ因縁はあるものの、自分が尽くした功績のわりに秀吉晩年は冷遇された面もあることから、特に負い目を感じていなかったし、割り切ってもいたのだろう。 如水は当時においても日本人には珍しいくらいの合理主義者で、常に醒めていたのだろう。過去の因縁とか義理をいつまでも引きずっている人ではない。いち早くこれを清算し、自ら信じて理のある方向に大胆に突き進む。そこには如水なりの計算があって、決断した以上は振り返らない。力いっぱい賭けるので、結果がどうであれ、未練がましいことはない。生き延びるにしても、さばさばして後腐れがない。 如水は当時においては珍しいインテリであり、育ちもよく、気品もあった。冷静に時運の歩みを眺めつつ、おりあらば夢を実現しようとする、生甲斐のある人生であった。合理性を重んじながら、浪漫性をも具備している。計算をしつつも、欲に気を取られて前後を忘れるようなことはなかった。 |
小大名の家老の家の悲哀 |
如水は、天下に望みを抱いていたといわれる。しかしながら如水が生まれたのは、戦国時代も半ば過ぎに当たる天文15年(1546)12月である。つまり織田信長には12歳、豊臣秀吉には10歳の隔たりがある。隔たりは単に年齢のみではなく、信長が、その父から譲り受けたものは、尾張半国の旗頭的勢力であった。信長は、それを土台に足場を固め、見事に中原進出を果たし、さらに四方の経略に効果を上げた。秀吉は、武士でもない一介の卑賤の身分ではあったが、その信長に仕えて出頭人となり、出頭人としての実力をもとに、信長の衣鉢を継ぐことに成功している。 これに対し如水の家は、播磨の姫路近郊の小豪族に過ぎなかった。戦乱の世では到底自立できないとあって、より大きな豪族・小寺氏の被官となって、姫路城代とされていたに過ぎない。その小寺氏にしても、播磨では聞えた豪族ではあったが、西に毛利氏が山陰・山陽10カ国に勢力を張っていたし、南の四国には三好氏があって、畿内の地を虎視眈々と狙っていた。東には織田氏がすでに京都を手に入れ、威勢隆々として天下に号令し始めていた。 小寺氏は、これら大勢力に挟まれて、吹けば飛ぶような存在でしかない。如水が、父の跡を継いで小寺氏に仕え、ようやく世の中がわかり始めたころ、すでに播磨は、これら大勢力の草刈り場となり始めていた。彼は小寺氏の使いとして岐阜へ潜行し、秀吉にあっせんを願って、信長に帰参を申し出るとともに、中国征伐の際の戦法を買って出た。 |
登場が遅かった如水 |
如水が歴史の表舞台に出たのは、この織田氏による秀吉の中国征伐がきっかけであった。時に天正3年(1575)、如水は30歳となっていた。信長の勢力はすでに10カ国にまたがり、秀吉は、その麾下にあって近江三郡(12万石)を領するところの、いわゆる一国一城の大名に取り立てられていた。ちなみに如水の地位は、当時まだ小寺氏の被官であったから、信長から見れば陪臣に過ぎない。 のちに如水が小寺氏から離れて信長の直臣となり、秀吉の推薦ではじめて一城(播州山崎城)の主とされたのは、これより5年も後の天正8年(1580)9月のことで、録高は1万石であった。なお、信長が本能寺の変で横死したとき(天正10年)、如水は播州2万石の領主であったが、秀吉はすでに播磨・但馬・近江にまたがる80万石の領主になっていた。 秀吉が自主的に活動を開始すると、天下は急速に統一に向かった。如水が天下を狙うために力を蓄えるには、すでにスタートが遅すぎた。如水はタイプから言えば、当時の群雄の中では秀吉が一番似ているだろう。しかし、その秀吉に10年遅く生まれ、小寺政職という暗君から離れ、要領よく秀吉に接近し、その懐刀といわれて活躍したが、しょせんは懐刀であって、秀吉を抜くことなど思いもよらなかった。 秀吉の死後、如水は関が原合戦時に、大いに暴れまわる。だがそれも北九州という地方の一部局を制しただけに留まり、到底天下には手が届かなかった。それもそのはず、当時の如水の身代は20万石前後の、それも家督をとうの昔に譲った後の隠居の分限である。彼がもし50万石以上の大大名であったなら、天下も夢ではなかったであろうが、天下を狙うには分限が低すぎた。 如水は戦国の英傑の中では後発で、彼が頭をもたげたときには天下は固まりかけていた。彼が天下の大舞台に、立役として登場するには遅すぎた。あまりある才智を持ちながら、舞台に出遅れた名優というべきだろうか。 |