父・山本五十六 ~「公人」の覚悟~ |
父山本五十六は、軍人を目指す時に、自分は武士の子であるから、この仕事を選んだのだと言っている。明治、大正と続くこの時代の世相は海軍兵学校の教育のように、国が危機にある時、常に陣頭にて国に殉ずる事に誇りを持つことができた時代でもあり、蓄財とか売名、そういうものとは無縁の人たちがいた時代でもあった。 五十六の場合、海とは縁のない長岡からどうしてということをよく聞くことがあった。しかし海には深いつながりをもっていた。近代海軍というのは元来、江戸幕府の海軍で、坂本龍馬を育てた勝海舟、榎本武揚、近藤真琴等が元祖のようなもので、島津海軍、薩長海軍等は後のものである。戊辰戦争直前、遠く鹿児島より上京、さらに死ぬような思いの旅をし雪深い長岡に学んだ日清戦争の時の連合艦隊司令長官伊藤祐享は、当時航海術の第一人者長岡の鵜殿団次郎を師とした人である。 五十六の伯父も戊辰の戦争を戦ったにもかかわらず、薩長海軍の中にあって実質的に連合艦隊司令となっているので、海軍とは無縁ではなかった。 自分の主義主張を明確に書き残した父の手紙が今もある。母が大事にしていた長文のもので晩年の字よりも流暢である。 父は自分の姪が務める東大病院を数多く訪れている。この医局に在籍していた母の従兄の水野さんが実際の話の糸口で、後でやはり母の方の縁者である四竈さんを仲人として立て結婚を結ぶことになる。わざわざ会津まで行き実際に会って結婚の決心をするのであるが、この会津行きには別の目的があった。父は結婚の用事が終わると直ぐに義父やともに戦った人々を祀る寺に行っている。 会津は志と反し、止むを得ず戦争へと傾斜していき、実に悲惨な苦労をなめた。会津士族である母の祖父も苦労力行して司法官となった。会津の士族、京大・東大総長、日本初の理学博士である山川健次郎氏に兄事し、独立した人であるが、同じ立場の藩と、義父戦死の地の人という事が心情的に心を動かす背景になっていたかもしれない。実際にこの会津の人々は遠く過ぎた戊辰の戦を忘れず、今でも年一回帯刀達の供養を戦死の日に行っている。母が会津人らしい優しさと、強い意志を持った人であったのはこの土地の気風と、両親の影響かもしれない。 私が母方の祖父に対し強い印象を持つのは何時も座敷のなげしに不思議な写真が飾ってあったことである。烏帽子直垂姿の松平容保公である。 会津城の堀を庭として天守閣を間近に臨むこの土地に、本来ならば裁判官判事・弁護士の終身保障の身でありながら、小さく痩せて柔和に見える人が何故これらのものを捨てて百姓となり、さらに大きく農場を経営し、朝鮮、ブラジルへの雄飛を目指したのか不思議である。 誰もついていけないような勤勉さ、意志の強さ、志の高さを持った祖父は、会津武士の伝統を山川健次郎氏等とともに守った人であった。米沢藩出身の母と会津武士の子供である母は、親の言う通り長岡藩の父と婚約した。 母と一家を形成する時、母に宛てた結婚直前の手紙がある。これは男の約束であり終生変わる事はなかった。この一節に、次のような事が書いてある。 「自分儀は御聞きおよびのとおり、多年海上に人となり、世事万端に甚だ疎く、且つ公私厳別、奉公一途こそ、自分一生の主義にこれあり候へば、一家の私事については人一倍の御苦労を相かけ申すべく、今より御依頼致し置き候」 これは母と父の約束であった。父の奉公に対し邪魔になるような事の無いよう家族は気を使った。父は公人として生きようとする人間であるから、家庭の私事に入り込んで記事をとったり、写真を撮ったりされることを極端に嫌った。もし出ているものがあれば正式に許可したものではない。普通一般の家庭の主人公が興味を持つ、家を建てたり、何処に住むとか、美味しい物を喰いたい、良い物を着たいなどは、父にとって全く無縁の言葉であった。 |