父・山本五十六 ~郷里長岡~ |
山本五十六は、自己顕示欲、売名、名誉心、権力欲、このような臭気のあるものを嫌った。 五十六の御国自慢となったとき、席上でこの二人があげられたという。「おらが国さの代表的な人は、良寛と謙信」 戦国時代、領土的野心、権力欲、人間の葛藤渦巻く中に正義の自己主張の旗印の下に戦い、敵将武田信玄をして、人として信頼すべき人物は上杉謙信のみと言わしめた人物。紫の衣にも緋衣にも、大堂伽藍にも縁無き乞食坊主、大愚良寛上人。この二人の人間性を高く評価し、郷里の誇るべき代表的人物としていたそうである。 一般的に五十六のような生き方は、特別に奇異と思われるかもしれないが、その時代に生きた人たち、つまり徳川、明治、特に戊辰戦争を一つの契機として生きた一家の歴史がそのような決心を当たり前とする人間を生んだのかもしれない。 五十六は若いとき、高野より山本を名乗った。唯一の財産は麻の上下である。義父山本帯刀は河井継之助とともに藩の責任を負った。当時の最も重い罪、生きていれば死、切腹の上に「家断絶」の罪である。海軍大学を出た若き海軍士官の五十六は、人々の輿望を担い、この家の回復の責任を負ったのだ。 大正6年5月19日、越後長岡の山本五十六として先祖の名前を記し家を継いだ。長岡の武士にとり代表者としての罪が公式に許されるのは、明治も17年たってからのことだった。 義正氏が生まれてからよく聞かされた話は、城を枕に討ち死にした老祖父秀衛門のことだった。長岡落城の際、祖父は城を捨てるようなことはしなかったということである。 また五十六は、小千谷談判のことに触れたことがあったそうだ。ロンドンに日本代表としていった時の事。戦争を絶対に避けることを悲願としていた河井継之助は、その心情を吐露し、戦を避けるため捕えられ、殺されることを覚悟で敵陣営に数人のみでえ行く。決裂し、再考するとき、「我が元を斬り、三万両を添えて西軍に差し出せ」と言っている。我が元とは自分の首のことである。五十六はこの精神で行くのだと。 望まざる戦いをせざるを得なかった長岡の武士たちは戦った。そして祖父は城を捨てることはなかった。五十六の父も兄も戦い続けた。継之助は死に、帯刀も会津城下で降伏せずに斬られた。会津が落ちても、長岡の武士たちは転戦し続けた。最後は北海道、五稜郭まで戦い続けた。 長岡の悠久山の一角には、戦い続けた長岡の人たちの魂を見る一角がある。苔蒸した墓石に刻まれた五十六の祖父秀右衛門の名前、そして帯刀とともに戦い、遺骸を葬し、さらに進んで斬られた渡辺豹吉の名が小さく刻まれている。藩の責任を負って罪に服した継之助の帯刀の墓が二つ並んでいる。残された人々は、次世代へ夢を託することを決して忘れなかった。自分たちは飢えても次に引き継がせようとする人々がいたのだ。 |