父・山本五十六 ~真の五十六の姿~ |
山本五十六の長男である義正氏によると、五十六は生前、自分の伝記などについて書かれることを嫌がっていた。特に戦争中は、本質的な事が明らかにされるようなことがあると、敵の資料として利されることになりかねないので中止されていたという。 戦死後、数人の人の手によってその企画がなされたことがあったが、急速に悪化する戦局の流れなどの事情により実現せず、また戦争に反対する立場をとっていたことなど、発表される状況でもなかった。 しかし戦後、青山の自宅より芝の水交社、日比谷の国葬へと続いた行事の中で、非常に長い葬儀の行事の日々があり、60歳で戦死した五十六の海兵三十二期のクラスをはじめとする縁ある人々、実際に仕事を一緒にしたことのある人たち、先輩・後輩・多くの人々が弔問に訪れた。そんな中で、長い通夜の行事もあり、この機会に毎日のように芝の水交社に縁類、親族の者も集まり、個人の思い出話が次々と語られたという。 特に、同級の人たち、すなわち三十二期は卒業時、遠洋航海代わりに日露戦争の実戦参加という特別のクラスで、当初より犠牲者を出した事でもあり結束が固く、色々世話になったという。郷里長岡の人々も健在の人が多く、戦争も、日本本土への直接の被害などがない時分だったので、物資こそだんだんと欠乏しつつあったが、精神的にはまだゆとりある時代だったようだ。 しかしこの反面、五十六の戦死による衝撃は大きく、政府・海軍としても戦意高揚の意味もあり、五十六が本当に望んでいた国家や軍のあり方や、真意などが発表されることはなかった。 一般の場合、個人の伝記が編纂されるときには、故人を最もよく知る人々が中心となり、多くの資料がきちんと整理され活字となっていく。だが、五十六の場合はその機会がなかった。時代の激しい流れとともに多くの物故者となった為なのだが、最大の理由は本人の性質、そして本当により親しかった人たちは、世間一般に五十六を語ることをしなかった極めて地味な人たちが多かったためではないかと回想している。だが、その人たちこそ、その人々の交流の中に常に五十六の思い出を語り続けた人々でもあった。 公人として生きることが自分の使命感でもあった五十六は、自分の仕事の内容を外部に発表したり誇示したりすることは決してなかった。ただ一緒に仕事をした人、直接の指導を受けた人たちが知っているのみである。 |