山本五十六エピソード
 ~皿回しと逆立ち~
 


5歳になったときの五十六は、長岡町はずれの諏訪堂の森の神社祭礼で、両手に盆を持って舞う盆舞を見て、真似を始めた。大日本帝国憲法が発布された明治22年(1889)の春である。
5年後、阪之上小学校高等科1年になった五十六は、芸人はだしのきわどい皿回しを見せて、大人たちを驚かせた。明治27年、日清戦争が始まった頃である。
5年後、痩身短躯で負けず嫌いのこの少年は、新潟県立長岡中学校4年生で全校一の体操の名手となった。鉄棒では大車輪、大和魂などを度胸よくやり、床運動では逆立ち、転回等を軽々とやって、曲芸師にしたいくらいであった。

第一次世界大戦が終わった翌年の大正8年(1919)6月下旬、ベルサイユ講和条約調印が行われるのだが、その1か月前の5月20日、山本五十六海軍少佐は、アメリカ行きの商船諏訪丸に乗船して横浜を出発した。アメリカの国情研究を目的とする米国駐在を命ぜられて、ボストンに赴任するためである。
航海中の諏訪丸の船内演芸会で、山本少佐は、物も言わずにサロンの手摺の上に逆立ちし、並み居る日本人、外国人の男女に歓声をあげさせた。拍手喝采が鳴りやむと、彼はボーイから大皿二枚を借りて、両手に一枚ずつ持ち、鮮やかな皿回しをはじめた。前後、左右、上下に、あるいは小さく、あるいは大きく、水車のように振り回し、最後には両手の掌に皿を一枚ずつのせたまま、くるりくるりと何回も宙返りをしてみせて、観衆を唸らせた。山本五十六35歳の時である。

昭和10年(1935)4月半ば、長岡に帰郷した山本中将は、中学の後輩反町栄一氏と、満開の土堤の桜が12㌔ほど続く加治川に舟を浮かべて、流れを下った。川下から発動機船が花見船を三艘曳いて上ってくるのを見ると山本は、二人の船頭に全力で漕がせ、矢のように走り大きく揺れる舟の船首に出て、さっと逆立ちをした。
反町と二人の船頭は「アッ」と驚き、行き交う三層の花見船の乗客たちは、「ワーッ」と大歓声をあげて拍手大喝采をした。「アンコール!」の声を聴くと山本は、にっこりとして、再びさっと逆立ちをした。
花見客たちは、山本中将とは露知らず、やんやの大喜びであったという。山本五十六51歳の時の話である。





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