啓蒙と出版
1.倒幕と維新
 ~読書渡世の一小民~
 


           士藉を脱して平民に
慶応4年(1868)4月、江戸城は無血開城し、徳川幕府は名実ともに消滅した。徳川家達が駿府70万石の一大名として存続が決まり、同年8月、諭吉は幕臣退身の許可が下りたため、士藉を脱して平民になった。33歳であった。
「徳川家へ御奉公したが残念ながら今日このような形勢になり、もはや武家奉公も沢山だ。今後は刀を捨て読書渡世の一小民として生きたい。」
諭吉の幕府ならびに尊攘論者に対する見解は、時局の推移とともに変化していった。慶応3年(1867)、徳川慶喜が幕政改革に着手した時、諭吉はこれに大きな期待を寄せていた。だが、同年12月16日付、福沢英之助に宛てた手紙では、「昨年は御承知の通り余程開化に赴くべき様子に有之候処、近日は少し跡戻りの形勢にて筒袖もあまり流行不致候」というように、幕政に批判的態度を示している。
さらに、「尚々当時は日本国中の大名、銘々見込を異にし、薩土芸宇和島等は王政復古、京師に議政所を立つべしと云ふ。紀州其他御譜代家門の面々は、寧ろ忘恩の王臣たらんより全義の陪臣たらんと云ふ。薩土の義論公平に似たれども、元来私意より出でし公平論なれば事実行はれ難かるべし。御家門御譜代の面々奮発せんとすれども、内実力なし。如何にも恐入候御時勢に御座候。小生輩世事を論ずべき身に非ず、謹みて分を守り読書一方に勉強いたし居候。」
謹慎
上記の手紙は、10月24日の大政奉還、12月9日の王政復古のすぐ後で書かれている。諭吉はこの手紙と、先の幕政改革に期待を寄せた手紙との中間の慶応3年1月、3回目の洋行に出発する。それは、幕府軍艦の受け取りに渡米する正使小野友五郎の随員として、今回もまた頼み込んでいくことになったのである。このとき、渡米中の行動の不都合があったとの理由で、帰国後の7月から10月の間、謹慎を命じられた。この謹慎が原因で、幕政への期待から政治からの逃避という心境の変化が生じたと推察もできる。政事への嫌悪、政治へのおそれ、その政治から何歩か退いた立場から啓蒙評価する、そこに分を守り読書一方に勉強したいという処世の立脚点を見出したのではないか。
この謹慎と逃避の生活の中で翻訳と著述に専念した。著書の売れ行きは良かった。塾も新銭座に移し慶應義塾と名付け、授業料を定めて徴集し、学校経営に本格的に身を入れるようになった。ここに徳川の家臣を退き、同時に新政府からの出仕命令も拒否する。徳川家臣、新政府役人、ともに辞退することによって、武士としての政治への関わり合いを諦めたことの重要性が指摘されている。こうして、「読書渡世の一小民」としての任務の自覚が出てきたという。さらに慶応4年7月の「慶應義塾之記」「中元祝酒之記」には、その任務への積極的な姿勢が示されている。




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