啓蒙と出版 1.倒幕と維新 ~読書渡世の一小民~ |
「徳川家へ御奉公したが残念ながら今日このような形勢になり、もはや武家奉公も沢山だ。今後は刀を捨て読書渡世の一小民として生きたい。」 諭吉の幕府ならびに尊攘論者に対する見解は、時局の推移とともに変化していった。慶応3年(1867)、徳川慶喜が幕政改革に着手した時、諭吉はこれに大きな期待を寄せていた。だが、同年12月16日付、福沢英之助に宛てた手紙では、「昨年は御承知の通り余程開化に赴くべき様子に有之候処、近日は少し跡戻りの形勢にて筒袖もあまり流行不致候」というように、幕政に批判的態度を示している。 さらに、「尚々当時は日本国中の大名、銘々見込を異にし、薩土芸宇和島等は王政復古、京師に議政所を立つべしと云ふ。紀州其他御譜代家門の面々は、寧ろ忘恩の王臣たらんより全義の陪臣たらんと云ふ。薩土の義論公平に似たれども、元来私意より出でし公平論なれば事実行はれ難かるべし。御家門御譜代の面々奮発せんとすれども、内実力なし。如何にも恐入候御時勢に御座候。小生輩世事を論ずべき身に非ず、謹みて分を守り読書一方に勉強いたし居候。」
この謹慎と逃避の生活の中で翻訳と著述に専念した。著書の売れ行きは良かった。塾も新銭座に移し慶應義塾と名付け、授業料を定めて徴集し、学校経営に本格的に身を入れるようになった。ここに徳川の家臣を退き、同時に新政府からの出仕命令も拒否する。徳川家臣、新政府役人、ともに辞退することによって、武士としての政治への関わり合いを諦めたことの重要性が指摘されている。こうして、「読書渡世の一小民」としての任務の自覚が出てきたという。さらに慶応4年7月の「慶應義塾之記」「中元祝酒之記」には、その任務への積極的な姿勢が示されている。 |