1・石田村の人々 井伊家と彦根城 |
佐和山に入った井伊直政 |
関ヶ原の合戦翌年慶長6年(1601)、彦根藩井伊家の祖井伊直政は家康より石田三成の旧領を拝領し、近江佐和山城に入った。 佐和山城は落城の折、山頂にあった天守閣をはじめ本丸の建物のいくつかは焼けていたが、そのほかの施設はそのまま残っていたようで、直政はまずそこに入ったのである。なお二の丸には家老の木俣守勝が、三の丸には中野直之が入ったというから、城はまだ十分に使える状態にあったのだろう。 井伊家の歴史を記した「井伊年賦」によれば、佐和山は西国や中国の押さえであり、また京都にも近かったため、家康は重臣で信頼の厚い井伊直政をここに配置したのだろう。さらに「井伊年賦」は、家康は西国や中国の人質を佐和山において受け取らせる考えであったとも記されている。 いずれにせよ、家康は佐和山、のちの彦根の地を九州や中国地方にいる旧豊臣系大名、そして大坂にいる豊臣秀頼などに睨みを利かせ、さらには京都の朝廷を監視する要の地であると位置づけ、そこに重臣の井伊直政を配したのである。 しかし、佐和山城は石田三成が丹精込めて築いた城であり、何より石田色の強い城であった。もし、そのまま井伊家がこの城に居座ったとなると、領民は井伊家が石田を継承したかのごとき錯覚を抱くし、また、領民たちの三成への思慕を断ち切ることなどできない。 何より、石田三成は徳川家康に立ち向かった悪人であると喧伝しなければならない人物である。その城を徳川家四天王のひとりとまで言われた重臣井伊直政がそのまま使用することなどもってのほかであった。 |
彦根築城 |
そこで、直政は家康と相談して彦根の地に新たに城を築くことにした。というより、それは井伊家にとって家康の意を受けた自然の流れであったといえるだろう。 直政は当初、新たな城を佐和山の北にあり、琵琶湖に突き出た磯山に築く予定であった。そこはかつて戦国大名浅井氏の家臣磯野氏の城があった場所で、湖岸の要衝の地であった。しかし、直政はこの計画が実行される前に、関ヶ原で受けた鉄砲傷が悪化し、慶長7年(1602)に死去してしまう。 直政の後は、嫡子の直継が継いだが、まだ幼少であったため、家老の木俣土佐が慶長8年伏見城に赴き家康に謁見し、磯山への築城の意向を伝えた。木俣が家康に佐和山、磯山、金亀山(彦根山)の絵図を示したところ、家康は「磯山は良い場所とは思えない。佐和山の西南にある金亀山は山麓が湖水に洗われる要害の地で、磯山よりも勝っていると聞いているので、どうしてもということでなければ金亀山に城を築くべきである」と言ったという。 彦根築城が決まった慶長8年、家康は朝廷より征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開いて、武家政権への一歩を踏み出した。しかし、大坂城には依然として豊臣秀頼が健在であり、家康が天下を完全に掌握するには、大きな障害であった。また、九州や中国地方などの西国には、加藤清正や福島正則ら大きな領地を持つ豊臣系大名が多く存在していた。彼らは関が原の合戦時には家康に従ったものの、秀頼が健在である限り家康に完全に従うかどうかはわからなかった。それどころか、今後の豊臣家の出方次第では、いつ徳川家の敵になるか知れたものではなかった。 |
石田時代の終わり |
関ヶ原の合戦では、徳川本軍ともいうべき秀忠軍が遅れ、その分豊臣系大名が活躍したため、結果として家康は彼らの領地を増やさなければならなかった。もちろんこれは、家康にとって本意ではない。家康にとっては関が原に勝利したとはいえ、予期しない事態であったといえる。 そのため、西国大名を監視し、大坂に睨みを利かせるためには、この彦根の要害の地に堅固な城を築き、確かな信頼のおける自らの家臣をそこに配置しておく必要があった。この彦根城は、井伊家の居城というだけでなく、徳川家自身にとっても重要な意味を持つものであった。それゆえ、城の一刻も早い完成が待ち望まれた。 彦根城の築城工事は、慶長9年から開始された。近江国周辺の七カ国の大名が動員される、いわゆる天下普請であった。幕府からも三名の奉行が派遣され、まさしく幕府主導で行われた。いかに家康が彦根城を重視していたかがわかる。そして、この工事に伴って佐和山城の旧城郭にあった建物や石垣は解体され、彦根城築城の材料として再使用されていったのである。 石田家の威信と徳治の象徴であった居城、佐和山城。この佐和山城の消滅は、そのまま彦根城の誕生であった。そこでは視覚を通して佐和山の石田時代が終わり、彦根の新たな井伊家の時代が始まったのである。 |