滋賀県長浜市石田町、長浜の中心街からは徒歩で行くのは厳しく、自転車で40分ほどかけていった。この石田町は、石田三成が生誕した場所と伝えられている土地で、小字を「治部」といい、広さがおよそ一町四段程(約2600平方メートル)ある。この小字全てが石田屋敷であったかは定かではないが、地名自体は三成の官途「治部少輔」から命名されたものである。もともとこの地には別名があり、「御油田(ごいで)」と言われており、この地から山一つ隔てた大原観音寺の「御油田(ここからの年貢を、寺で使う油代にあてた田畑)」であったことを示しているが、豊臣政権時に奉行となった三成があまりにも有名になったので、生家の地に三成の官途「治部」がつけられるに至ったのであろう。
石田治部少輔三成屋敷跡
現在、この館跡は、昭和16年に建造され「石田治部少輔三成出生地」と大書された石碑が目に入る。その左には、石田三成像が控え、その手前には三成の事績を写真・パネルなどで紹介している石田会館がある。
石田会館内の石碑 三成顕彰の歌碑も 石田三成座像
だが、ここが石田家の屋敷であったことを示す直接の証拠はさほど多くはない。わずかに小字「治部」の南西端に「堀端」「治部池」と呼ばれる池があるのみである。
これは、石田屋敷の堀の一部であると伝えられている。隣接地に目をやると、「的場」「番場」「御畑」といった、村の武士に関わりのありそうな地名が並ぶ。「的場」「番場」は、村の武士の軍事調練に関する地名、「御畑」は村の武士の所有畑と解することができる。
治部池と呼ばれる小さな池
三成の家・石田家はこの屋敷跡の状況からすると、土豪とか地侍などといった村の武士であった。この地には、他の土豪の家と同じように、堀と土塁で囲まれた70ⅿ四方のほどの屋敷があったと考えるべきであろう。
この屋敷跡の東には、石田家の氏神と言われる八幡神社がある。昭和18年、この八幡神社の境内から、故意に割られた多数の五輪塔残穴が発見された。その一部には、天文・永禄の年号が刻まれたものもあり、石田家に関係のある墓で、その滅亡後に破壊されたのではないかと推定されている。昭和47年になって、八幡宮の裏手に供養塔が新たに建立され、その周りに出土した墓石も改葬されている。
石田家の氏神である八幡神社 三成の供養塔
なお、三成の出自については、江戸時代に書かれた「常山紀談」や「名称言行録」には、その生家は貧しかったと記されているが、近代以降の研究では三成貧民説は否定され、上記のように石田家は村の武士、つまり土豪の家であるという見解が有力である。石田屋敷の状況などから見てもほぼ間違いないと思われる。
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