| 石田家のルーツ ~石田村の土豪~ | 
| 
  石田治部少輔三成屋敷跡 
    石田会館内の石碑 三成顕彰の歌碑も 石田三成座像 だが、ここが石田家の屋敷であったことを示す直接の証拠はさほど多くはない。わずかに小字「治部」の南西端に「堀端」「治部池」と呼ばれる池があるのみである。 これは、石田屋敷の堀の一部であると伝えられている。隣接地に目をやると、「的場」「番場」「御畑」といった、村の武士に関わりのありそうな地名が並ぶ。「的場」「番場」は、村の武士の軍事調練に関する地名、「御畑」は村の武士の所有畑と解することができる。  治部池と呼ばれる小さな池 三成の家・石田家はこの屋敷跡の状況からすると、土豪とか地侍などといった村の武士であった。この地には、他の土豪の家と同じように、堀と土塁で囲まれた70ⅿ四方のほどの屋敷があったと考えるべきであろう。 
    石田家の氏神である八幡神社 三成の供養塔 なお、三成の出自については、江戸時代に書かれた「常山紀談」や「名称言行録」には、その生家は貧しかったと記されているが、近代以降の研究では三成貧民説は否定され、上記のように石田家は村の武士、つまり土豪の家であるという見解が有力である。石田屋敷の状況などから見てもほぼ間違いないと思われる。 |