石田・毛利連合政権の成立
 ~豊臣秀頼を直接奉戴~
 


 大坂三奉行からの書状
慶長5年7月17日付の「内府ちかひの条々」と同日付で、大坂三奉行(長束正家・増田長盛・前田玄以)が諸大名に出した書状は以下のようなものであった。
急度申入候、今度景勝発向之儀、内府公上巻之誓幣幷被背太閤様御置目、秀頼様被見捨出馬候間、各申候及楯鉾候、内府公御違之条々別幣二相見候、此旨尤に恩召 太閤様不破相忘御恩賞候者、秀頼様へ可有御忠節候、恐々謹言
  七月十七日 長大正家 増右長盛 徳善玄以   中川修理殿 御宿所

これは、三奉行が連署して、中川秀成に出したものであるが、これと同文の物が他の諸大名にも出されているので、諸大名に向けて家康弾劾状を広く周知させたということになる。
内容的には、この度の家康による上杉討伐は、太閤様(秀吉)の置目に背き、秀頼様を見捨てて出馬したので、各々(毛利輝元・宇喜多秀家の二大老と石田三成・長束正家・増田長盛・前田玄以の四奉行)が協議して家康と戦争状態に入った。家康についての「御違之条々」は別紙に見える。この旨を尤もに思い、太閤様の「御恩賞」を忘れていないのであれば、秀頼様へ忠節を尽くすように、というものである。
 石田・毛利が秀頼奉戴の証拠
ここでは、家康の上杉討伐が秀頼を見捨てて勝手に出馬したものである、としているので、家康の上杉討伐は公戦ではなく、秀頼の御意には関係がない私戦であるという意味になる。この事を諸大名に周知させたことは重大な政治的意味を持ち、家康の上杉討伐についての大義名分が消失してしまい、上杉討伐の実行は不可能になってしまった。そして、家康による上杉討伐の強行が原因で二大老・四奉行と家康が交戦状態に入ったと宣言した事は、家康が秀吉の置目に背き、その後継者である秀頼を見捨てたとしている以上、家康を豊臣公儀から排除したことを天下に明示したことになる。つまり、家康はこの時点で五大老の一人という政治的地位をも失ったのである。
そのうえで、秀頼への忠節を尽くすように命じたという事は、二大老(毛利輝元・宇喜多秀家)・四奉行(石田三成・長束正家・増田長盛・前田玄以)が、秀頼を直接推戴して政権を掌握している、ということを意味しているのである。この二大老・四奉行のそれぞれの筆頭は毛利輝元と石田三成であるので、石田・毛利連合政権が成立した。逆に言えば、「内府ちかひの条々」により公儀性を剥奪された家康は、この時点で秀頼を推戴していない点は大いに注意する必要がある。




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