石田・毛利連合政権の成立 ~豊臣秀頼を直接奉戴~ |
急度申入候、今度景勝発向之儀、内府公上巻之誓幣幷被背太閤様御置目、秀頼様被見捨出馬候間、各申候及楯鉾候、内府公御違之条々別幣二相見候、此旨尤に恩召 太閤様不破相忘御恩賞候者、秀頼様へ可有御忠節候、恐々謹言 七月十七日 長大正家 増右長盛 徳善玄以 中川修理殿 御宿所 これは、三奉行が連署して、中川秀成に出したものであるが、これと同文の物が他の諸大名にも出されているので、諸大名に向けて家康弾劾状を広く周知させたということになる。 内容的には、この度の家康による上杉討伐は、太閤様(秀吉)の置目に背き、秀頼様を見捨てて出馬したので、各々(毛利輝元・宇喜多秀家の二大老と石田三成・長束正家・増田長盛・前田玄以の四奉行)が協議して家康と戦争状態に入った。家康についての「御違之条々」は別紙に見える。この旨を尤もに思い、太閤様の「御恩賞」を忘れていないのであれば、秀頼様へ忠節を尽くすように、というものである。
そのうえで、秀頼への忠節を尽くすように命じたという事は、二大老(毛利輝元・宇喜多秀家)・四奉行(石田三成・長束正家・増田長盛・前田玄以)が、秀頼を直接推戴して政権を掌握している、ということを意味しているのである。この二大老・四奉行のそれぞれの筆頭は毛利輝元と石田三成であるので、石田・毛利連合政権が成立した。逆に言えば、「内府ちかひの条々」により公儀性を剥奪された家康は、この時点で秀頼を推戴していない点は大いに注意する必要がある。 |