石田・毛利連合政権の成立
 ~石田・毛利連合政権~
 


 徳川史観による西軍劣勢説
慶長5年(1600)の関ケ原の合戦に際しては、従来は、徳川家康の権力形成過程について、家康が結果的に大勝利を収めたという結果論から遡及させて過大視する傾向があった。一方、家康に敵対した石田三成・毛利輝元の権力形成については、戦いの敗者という点から、石田三成・毛利輝元の権力基盤は脆弱であり、常に劣勢に立たされていた、という見方が顕著である。
以前までは、慶長5年7月の時点で、石田三成と毛利輝元が連合政権を樹立した、とする指摘は全くされてこなかった。それどころか、「家康が上杉征伐で留守の間、石田三成が毛利輝元らを担いでクーデターを起こした、俄か公儀」に過ぎない、という見方すらなされているほどで、従来の解釈もそれに近いものが多かった。
また、別の見方では、「慶長5年7月に、石田三成が家康に反旗を翻し、五大老の一人だった毛利輝元を大将に戴くと、西軍の指導層である毛利輝元・宇喜多秀家の二大老が「公儀」を称した。ここでの「公儀」はいわゆる西軍のことであるが、それは秀頼を王とする豊臣王権にほかならない」としており、この時点で東軍の徳川vs西軍の豊臣という見方をされていたというものである。結局ここでは、石田三成・毛利輝元の連合政権が樹立された、という見方はされていない。

 政権として機能していた石田・毛利連合軍
しかし、実際には、大坂の三奉行(長束正家・増田長盛・前田玄以)が徳川家康を弾劾した「内府ちかひの条々」を出した7月17日に石田・毛利連合政権が誕生し、9月15日に関ケ原の戦いで敗北するまでの約2か月間は、政権として政治的に機能していたと考えられる。
石田・毛利連合政権は、二大老である毛利輝元と宇喜多秀家と四奉行の石田三成・長束正家・増田長盛・前田玄以という体制で政権中枢が構成されていた。このことは、8月25日付で上杉景勝が発給した書状の宛所がこの6名である事や、信濃一国の仕置を真田昌幸に命じることをこの6名から申し遣わしたことなどがその証左となる。上杉景勝は五大老の一人であり、石田・毛利連合政権に同調して国許で軍事行動を起こしていたが、上方にいて豊臣秀頼を直接推戴する状況になかったため、毛利輝元・宇喜多秀家とともに連署状に連署することはなかった。よって、上杉景勝は政権中枢の構成メンバーには入っていないと考えられる。
石田・毛利連合政権の時期的下限を示す史料としては、9月13日付で毛利輝元と増田長盛が連署して多賀秀種に出した感状(大津城の二の丸・三の丸を今朝一番に乗り崩した手柄に対する感状)がある。この場合、9月13日の時点では、二大老、四奉行のうち、宇喜多秀家・石田三成・長束正家は前線に出陣していたためこの感状の連署に加わっておらず、大坂城に在城していた毛利輝元と増田長盛のみが連署しているが、この感状の存在から9月13日の時点において石田・毛利連合政権が機能していたことがわかる。
ところで、石田・毛利連合政権が機能していたという具体的な論拠としては、次項以降の論拠を挙げて説明していきたい。




TOPページへ BACKします