石田・毛利連合政権の成立
 ~毛利輝元の大坂城入城~
 


 輝元が大坂城で秀頼を補佐
「内府ちかひの条々」が出された7月17日に、毛利輝元が豊臣政権の所在地である大坂城に入城して秀頼を補佐したことも、重大な意味を持つ。この時、家康の家臣は大坂城から排除されている。
石田三成は8月7日付で真田昌幸に対して、①大坂城西の丸に家康の留守居の者五百人あまりがいたのを追い出して、伏見城へ遣わした。②大坂城西の丸へは毛利輝元が移った。と報じている。このことからは、毛利輝元が大坂城西の丸へ入城して、それまで大坂城西の丸に残っていた家康の留守居五百人ばかりが追い出されて伏見城へ移った事がわかる。

 去就を決めかねていた黒田如水
天下之儀、てるもと様御異見被成候様にと、奉行衆御申、大坂城御うつりなされ候事、目出度候事、左候ハハ秀頼様へ別心存者あるましく候条、定て目出度しつまり可申候
これは、8月1日付で黒田如水が吉川広家に出して書状の中の一節である。この内容としては、「天下之儀」いついて毛利輝元が「御異見」するように、との大坂奉行衆の申し出により輝元が大坂城へ移ったことは目出度いとしたうえで、そのようになれば秀頼様へ別心を抱く者はないと思われるので、必ず目出度く鎮まるであろう、と記している。黒田如水は8月中は九州においてまだ軍事行動を起こしてはおらず、軍事行動を開始するのは9月に入ってからであるが、この8月1日時点の上記の内容を見ると、毛利輝元が秀頼を補佐するために大坂城に入城した事を是認しており、目出度いと賞していることは、石田・毛利連合政権の成立により天下が治まったかのような物言いである。
黒田如水は8月1日の時点では、石田・毛利連合軍につくのか、家康主導軍につくのか、いまだその去就を決していなかったと思われ、この書状の末尾では、『其表」の様子を詳しく聞くため使者を一人下してほしいと述べ、そうすれば「我等心中」も「貴殿様」へは残らず申上げるつもりである、と意味深長な事を記している。これは、黒田如水が毛利輝元の今後の軍事行動の出方を探ろうとしたことを示している。




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