4・教育者としての井上成美
教わる立場としての井上 

教育者としての井上を語る前に、教わる立場、つまり生徒・学生としての井上は果たしてどんな人間であったのかを見てみたい。
中学校生徒としては、宮城県立仙台第二中学校(現・県立仙台第二高校)に今も残っている4年修了時の井上の成績簿が端的に物語っている。
学科 及落 及
    平均点 八八
    順位 一/六十
    優科 数学
    劣科 漢文
    運動 不足
性行 性質 鋭敏ニシテ深重
    操行 謹直
    嗜好 音楽と細工
    志望 海軍軍人
    備考 精勤
    父兄ノ認メタル性行  短気

中学時代にしてすでに井上成美の人間像が浮かび上がってくる。「鋭敏にして深重」な性質は、後年海軍の要衝についてから遺憾なく発揮され、「音楽と細工」に向けられた嗜好は、晩年の井上塾における指導に生かされている。 
    海軍兵学校生徒として
海軍兵学校時代の井上はどのような生徒であったのだろうか。
日本海海戦でパーフェクトゲームを演じた日本海軍の将校育成の地である江田島にある海軍兵学校は、当時の若者の憧れの的であった。仙台における中学生の進学希望第一位は兵学校、次が第二高等学校(現在の東北大学)であった。
明治39年(1906)11月24日、全国から16倍の競争に勝った180名の若者が兵学校に入校した。井上の入校席次は九番であった。英語と数学が得意であった井上も、己よりはるかに優れた才能を持った同期生が数多くいる事を知らされた。たとえば「アドベンチャーズ・オブ・シャロック・ホルムズ」を読むのに自分は1頁1時間かかるのを、関根郡平は20頁も読むことができた。大いに発奮し猛勉強して2学年の前記、クラスのトップになった。「よくやった、後期も一番になれよ」と多くの同期生から励まされた。「海軍というところは、同僚の良いことを心から喜ぶし、蔭口は決して言わないところだ」と井上は嬉しく思った。
貴族的な香りのする教育を受け、「リズムがあり調和があり、詩もあり夢もある生活」を井上は3年間送り、恩賜の双眼鏡を貰い次席で兵学校を卒業した。時に19歳。
    術科学校(砲術・水雷・航海)の学生として 
20歳のとき、オーストラリア方面遠洋航路、21歳にて海軍少尉任官。
22歳、初級将校の必修コースである海軍砲術学校普通科学生、続いて水雷学校普通科学生となり、兵学校生徒時代に手ほどきを受けた術科の総仕上げをした。
水雷学校の学生のとき、ある事件が起こり、学生は講堂に集められ、担任教官より叱責を頂戴したことがあった。最後に「それでも自分が正しいと思うものは出て行け」と教官が申し出たのだが、井上は間髪を入れずさっと席を立ち平然と出ていったのである。周りを一顧だにせず己の信ずるところを行ったのだ。
後年、海軍省軍務局第一課長のとき、伏見宮博恭王の圧力のもと、次官、局長のとりなしにもかかわらず、「海軍の為、日本の為になりませぬ」と言って、「軍令部条例」改定の案に断固として反対し続け、ついにそのポストを更迭された井上の片鱗がうかがえる。
26歳、大尉のとき海軍大学校乙種学生となる。少尉任官後、クラスヘッドを続ける井上のこの乙種学生での卒業成績は、下のクラスのものに負け2番。義兄の阿部信行(のち陸軍大将・首相)に「新婚ほやほやだったからだ」とひやかされている。
続いて海軍大学校航海専修学生となる。
    海軍大学校の学生として
スイス、ドイツ、フランスの駐在を終え、海軍大学校甲種学生受験の前提条件たる海上勤務9か月を経て、32歳のとき、井上は海軍大学校甲種学生となった。エリートコースの登竜門たる海大入試では、海外出張の長かった井上のために特別に規則変更もあって、筆答試験は落第だったが、お情けで受けさせて貰った口頭試験がトップだったため、やっと合格している。
海上勤務を去り、大学校へ入校するとき、上司の副長より「大学校へ入ったら一番で卒業しろよ」と激励された。井上はさも心外そうに「私は俸給を貰いながら2年間も勉強させていただくので非常にありがたいことと感激しておりますが、一番で出ようなんて思っておりません。時間を頂き教わるのですから、教えられたことは全部身に着けて覚えますが、卒業の成績なんか考えておりません。私より頭の良い人がいれば、その人が一番になります」と答えている。こういう当たり前のことを当たり前のように応えられては返す言葉もない。そして本人の宣言通り、優等生二人に与えられる恩賜の軍刀は貰っていない。
当時は、ワシントン海軍軍縮条約成立後であるため海軍大学校における研究は主として旧態依然たる「海戦要務令」を金科玉条とし、太平洋を渡って侵攻してくる優勢なアメリカ艦隊を、いかにして日本近海で劣勢の日本海軍がこれを殲滅するかを研究の重点に置いていた。また、「戦史」の研究では、第一次世界大戦中のイギリス、ドイツの主力艦隊の決戦を論議することに終始した。「海大では、教官にフォローするばかりの独創性のない者がトップになる。往々にしてこんな奴が国を滅ぼした」と恩賜組をけなす恩賜の人もいた。
海軍におけるエリートコースの入口で、井上は早くも独自の考え方、生き方をし始めていたのである。




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