1・井上成美と日本海軍 気概と気迫・反骨 |
井上成美は、およそ40年間もの間日本海軍に従軍している。その人生は海軍というよりかは、むしろ大きな日本の転換点に直面し、四度大いなる反骨を示し、滔々たる流れに反対している。滔々たる流れとは、戦争に無謀に突入していった日本海軍の安易な思考に対してというべきか。 井上は三度も辞意を明らかにし、軍服を背広に着替えようとしている。軍人たるものが勝手に辞めることはできないものだが、組織のうちにあって大将という最高位まで上り詰めた人材が、真剣に組織に三下り半を叩き付けること三度、というのは、簡単に見過ごすことができない。井上と考えを同じくした山本五十六も、少将時代に海軍を去ろうとし、親友の堀悌吉少将に「お前までが辞めたらあとの海軍はどうなると思うか」と止められ、翻意している事実がある。戦後、陸軍に比して人気がやたらと高い海軍ではあるが、その組織自体に何らかの欠陥があったのではないか、と疑わざるを得ないのである。 井上は海軍大学を卒業した後、海軍将軍務局に入り、軍務局第一課局員、第一課長、軍務局長と、その間の海上勤務と外国勤務の短い期間を除いて、少佐から少将までずっと軍務局第一課勤めで一貫した。作戦を研究している軍令部の椅子には、一度も座ったことがない。つまり井上は海軍軍政とともに生きてきたのである。 軍務局第一課は、海軍省内の各科の総まとめの役であり、軍令部との調整役でもあった。また海軍大臣のスタッフとして、陸軍省、大蔵省、外務省、内閣法制局など政府の各省庁との折衝にもあたる役割を持っていた。それだけに国家や世界の情勢をベースに考えうる視野の広さと、バランスを過たない正確な判断力が必要な部署であったのである。 井上はまさにそこに最適の得難い人材であった。数理的な頭脳構造と、問題把握の適格性、明澄な先見性を特質とする人物で、しかも自分の信念に忠実。言い換えれば頑固すぎるくらいといえるほど、自己の信念に生きる男でもあった。井上は自分自身を「ラジカル・リベラル」と規定していた。事実、型にはまった管理社会化し、対米英強硬路線を主張し始めた昭和の海軍にあっては、井上の存在はラジカルそのものであった。そしてそのラジカルのゆえに、海軍主流と四度衝突し、三度辞めようとした。その井上の反骨の人生を、海軍の中でどう生きたのか、それを追っていきたい。 |