2・井上の情報・戦略 ウェーク島攻略戦 |
井上艦隊の任務とは |
戦争開始に当たって井上の艦隊に与えられていた任務は、アメリカが南洋群島間にただ一つの根拠地であったグアム島と、マーシャル群島北方約1200キロにあるウェーク島の攻略であった。グアム島は陸軍の南海支隊と海軍特別陸戦隊が、ウェーク島は海軍が独自で攻略することになっていた。 グアム島はアメリカが古くから領有し西太平洋におけるアメリカの拠点と考えられていたので、その攻略には陸海軍の相当な部隊を充当し、ウェーク島は絶海の孤島なのでその防備も大したものはないだろうとの判断に基づいて、そのような攻略計画を立てたのであった。その判断がいかに間違っていたかは、その占領作戦の経過が如実に実証する。 グアム島の攻略は、12月10日未明、16隻の輸送船に分乗した南海支隊と海軍特別陸戦隊が同島の三方面から上陸して始まった。攻略作戦は第六戦隊司令官が指揮していた。が、予想に反して同島の小兵力の守備隊はほとんど抵抗することなく降伏した。 これに反してアメリカがその防備力を強化していたウェーク島では、予想以上の抵抗にあって、攻略の計画予定が大幅に狂ったばかりか、相当以上の損害を受けることになってしまったのである 作戦を担当していた第四艦隊司令部では、開戦直前のルオット基地から出た中攻の写真偵察で同島の南東部に約1500mの滑走路があり、戦闘機が配備されているたしいと判断していたが、陸戦隊を上陸させて夜明け前にそれを占領すれば、敵機の活動を封ずることが可能だろうと判断していた。第二十四航空戦隊の九六式艦戦では攻撃を封ずることは不可能であったし、母艦の応援を求めることも実現の見込みはなかった。 また、同じ写真偵察で相当な海岸砲や対空火器が認められたが、それに対しては中攻部隊の爆撃効果に期待をかけていた。陸戦舞台としては第六根拠地隊(マーシャル)からわずか2個中隊を当てただけだった。 |
魔島ウェーク |
ウェーク島への攻撃は、12月8日の中攻34機の爆撃で始まった。翌9,10日と引き続いて各々27機で爆撃を加えたが、敵の戦闘機の活動を封ずるまでには至らなかった。 10日夜半、攻略部隊が同島に接近して上陸用舟艇を海面に降ろそうとしたが、大きなうねりのため成功しなかった。そうこうするうちに夜が明けると、敵の海岸砲から猛烈な反撃を受け、駆逐艦疾風は被弾して沈んだ。その後まもなく駆逐艦如月は敵の爆撃を受けて海中に没した。この状況を知った井上は同島攻略作戦の中止を発令した。 さらに17日の夜には、同島を取り巻いて哨戒に当たっていた呂号第六十六潜水艦が呂号第六十二潜水艦と衝突して海中に没した。連合艦隊参謀長であった宇垣少将は、その日の日記の中でこの沈没に言及して、「何たることぞ、惜しむべし。同島は少し魔物なり」と嘆じている。 魔島ウェークを攻略するには、さらに有力な増援部隊の派遣と、犠牲を必要とした。折からハワイ攻撃を終わって本土に向かって帰投中であった南雲部隊のうちから、第八戦隊(利根、筑摩)および第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)が支援に当てられ、グアム島攻略を終わった第六戦隊が新たに攻略部隊に加えられた。敵前上陸部隊にも固有の陸戦隊一個中隊が増援された。 21日、第二航空戦隊の精鋭の攻撃隊が同島に殺到した。さしも猛威を振るった同島の敵機も、一撃でその息の根を止められた。翌々23日の未明、攻略部隊は同島に上陸を試みたが、風波が強かったのと、頑強な敵の抵抗のために思わぬ困難に直面した。陸戦隊を乗せていた二隻の哨戒艇を敵前に乗り上げて、ようやく上陸部隊を上陸させることができた。哨戒艇の敵前乗り上げは、井上長官の示唆に基づくものであったことは注目されてよい。その後に激戦を展開した後、ようやく魔島ウェークを占領した。 これは進攻作戦における最初の、そして唯一の挫折であった。またその時はまだそれと気づかなかったが、戦闘機の援護のない水上部隊が、わずか数機の敵の前に、いかに苦戦を強いられるものであるかを、如実に示すものでもあった。開戦以来の相次ぐ戦勝で鼻息の荒くなった連合艦隊司令部の幕僚は、ウェーク島攻略作戦を指揮した第四艦隊の不手際を非難したが、むしろ新しい戦争の様相の本質に、冷静な観察の眼を向けるべきであった。確かに井上の司令部は同島の抵抗力を見誤ったが、その当時の第四艦隊の立場を考えると、その責任の過半はむしろ連合艦隊司令部が負うべきであった。 |
幻の日米空母対決 |
第二航空戦隊が21日にウェーク島に攻撃を加えたとき、苦戦するウェーク島に対する増援とハワイを空襲した日本艦隊に対する反撃の目的で、アメリカ海軍の三隻の空母がひそかに同島の北東の海面に近づいていたのである。 12月11日にウェーク島に対する最初の攻略作戦が失敗したとき、アメリカ海軍は真珠湾奇襲で受けた大損害と大混乱のなかで、レキシントン、エンタープライズとサラトガの三空母機動部隊をウェーク島とマーシャル方面に出動させていた。ウェーク島に対する救援と同島に対する日本の再興されるであろう攻略に対して痛打を与えるためであった。 だが、真珠湾の大損害の責任を負わされて解任されたキンメルに替わって暫定的に太平洋艦隊を指揮したパイ中将が前任者の立てた作戦に乗り気でなかったのと、機動部隊の補給のためにその進出が相当に遅れていた。 21日にウェーク島が日本の空母機における空襲を報ずると、弱気であったパイはすぐ作戦を中止した。第二航空戦隊とウェークに一番近づいていたサラトガとの距離は約1,000キロであった。 もしも第二航空戦隊のウェーク島に対する攻撃が一日遅れていたならば、また、パイが積極的であったならば、日米両海軍間の最初の空母対空母の戦いが、同島の北東方の海面で交えられたかもしれない。もしもそうなったなら、日本海軍はアメリカの空母が付近にやってきているなど夢にも思っていなかったから、相当の苦戦を免れなかったであろう。だが、その当時における彼我の実力に格段の差があった事実と、第二航空戦隊の司令官であった山口多門少将の燃えるような闘志から考えて、少なくともサラトガを太平洋の水深く葬ることは不可能ではなかったかもしれない。だが、残る二隻の空母に対して、山口がどこまで善戦で来たかは疑問である。 |