2・井上の情報・戦略
継子扱いされた第四艦隊 

    戦闘能力に乏しい第四艦隊
昭和16年8月11日付で第四艦隊司令長官に任命された井上中将が、横浜から飛行機でトラックに飛んで、同地に在泊する旗艦鹿島に着任した時の第四艦隊の状況は、攻撃的な戦闘能力をほとんど持っていなかった。旗艦の鹿島は昭和15年に建造された練習巡洋艦で戦闘能力はないに等しかったし、天龍、龍田は旧式の二等巡洋艦であった。他に第十九戦隊という少将を司令官とする部隊が所属していたが、これは機雷敷設専用の部隊であった。
艦隊編成上では日本海軍の全外線部隊を指揮する連合艦隊に入れられていたから、井上の艦隊は山本連合艦隊長官の指図を受けたが、その連合艦隊司令部は戦闘第一を建前としていたから、内戦部隊のような性格の第四艦隊に対しては目が届かない。その上に、連合艦隊司令部には委任統治領の防備強化を焦る第四艦隊の必要な資材等の急送の矢のような催促を処理する能力に欠けていた。
挙句の果てには、連合艦隊司令部は第四艦隊を文句の多い継子の扱いにすらするのである。少し後のことになるが、10月中旬に連合艦隊の旗艦長門で来るべき戦争の図上演習が行われた時、第四艦隊にはお呼びがかからなかったほどである。
    ようやく増強される 
それでも9月になって日本海軍が戦時編成に移され連合艦隊の兵力が大増強されると、第四艦隊に第六戦隊(古鷹級巡洋艦四隻)、第六水雷戦隊(旗艦夕張および旧型一等駆逐艦八隻)および第七潜水戦隊(旗艦迅鯨および呂号潜水艦九隻)が増強された。さらに航空部隊として第二十四航空戦隊(九六式中攻三六機、九六式飛行艇二四機)が加えられた。
増強された水上艦艇や飛行機は、決して当時の第一線級ではなかったが、一応の打撃力を備えることにはなった。
もうその頃までには、それまでの夜を日に次いでの人力だけによる飛行基地建設がようやく実を結び、マリアナ方面に三か所(パガン、サイパン、テニアン)、パラオ方面に一か所(ペリキュー)、トラック、ポナペおよびマーシャル方面に三か所(クェゼリン、ウオッゼ、マロエラップ)に飛行基地が出来上がっていた。
    訓練する余裕さえない
9月になって第四戦隊に増強された部隊は、第二十四航空戦隊と第六戦隊を除いて戦時編成で新たに編成されたものであったから、それまで部隊として訓練したことがなかった。その戦力をいかにして向上させるかは急務の課題であった。
第二十四航空部隊の飛行部隊はそれまでにも艦隊訓練をしていたから、一応の戦力を持っていたが、その百機近い飛行機を遠く離れた予定の作戦基地であるマーシャル群島の基地に展開させるだけでも大事業であった。
しかも時間は迫っていた。第四艦隊司令部の最大の関心は、急増されたそれらの寄せ集め部隊をいかにして作戦開始までに予定の出発地点に進出させるかに集中していたといっても過言ではなかった。作戦部隊を集めて予定された作戦に対する訓練をする時間的な余裕すらもほとんどなかったのである。




戻る