2・井上の情報・戦略 「また負けたか四艦隊」 |
「いくさ下手」の井上 |
井上成美は、「いくさが下手」だったとよく言われる。それは井上自身も肯定するような発言さえある。 もっとも「いくさ」の範囲に軍政や教育も含めるとすれば、井上は日本海軍でまれにみる軍政家であり、そして教育家であったから、そういう意味において「いくさ下手」などとは広範な意味においては的を得ていない。 では、いわゆる作戦及び戦闘という範囲で「いくさ」というものを見ていくと、井上の戦争中の経歴は、第四艦隊司令長官として開戦時から翌昭和17年10月までの11か月に過ぎない。その後は海軍兵学校校長、海軍次官次いで軍事参議官として狭義のいくさの場からは遠のいていた。海軍次官および軍事参議官としては戦争指導という広い意味でのいくさには大いに関係していたが、ここでいわれる「いくさ下手」の評判は、井上が第四艦隊司令長官の時代に生まれたもののようである。 井上が第四艦隊司令長官であった時の主な戦歴を見ていくと、開戦と同時に実施したグアム島及びウェーク島攻略と、翌1月下旬のラバウルおよびカビエン攻略と、5月下旬の珊瑚海における戦いがあげられる。 |
相次ぐ作戦失敗 |
ラバウルとカビエンの攻略では敵側の防備がほとんどなかったのと、ハワイ空襲から帰った機動部隊の一部(加賀)が参加したので、何らの問題もなかったが、ウェーク島に対する攻略は状況判断の誤りから苦戦を強いられ、初めの攻略は失敗した。攻略部隊の兵力を増強し日を改めて攻略を実施し、かろうじて上陸に成功した。開戦になってから広い西南太平洋の各地で連戦連勝している中での唯一の失敗であっただけに、第四艦隊のウェーク島攻略の挫折は目立った。 珊瑚海の海戦は、5月7日から8日にかけて、海路からのポート・モレスビー攻略部隊を支援していた第五航空戦隊の空母(翔鶴・端鶴)と、それを阻止しようとしたアメリカの二隻の空母(ヨークタウンとレキシントン)との間に交えられた史上最初の空母間の戦いであった。第五航空戦隊は善戦してレキシントンを沈め、ヨークタウンをも傷つけたが、翔鶴も相当な被害を受けた。端鶴は被弾こそなかったものの、両艦ともその搭乗員には相当以上の損失があった。 現場の作戦最高指揮官であった井上第四艦隊司令長官は、ここにおいて「モレスビー攻略を延期する・・・」と発電した。その電報を見た連合艦隊司令部は「モレスビー攻略部隊は引き続き残敵を処分せよ」とこれ以上ない厳しい命令を下命した。 |
これ以上ない不名誉 |
ウェーク島攻略でへまをしでかして「弱い」とみられていた井上の第四艦隊に対する連合艦隊司令部の不満が、一挙に噴き出したのであろう。その頃までには、各方面における連勝に次ぐ連勝で、山本五十六連合艦隊司令長官の名声は昇竜のように天を衝くばかりになっていたから、だらしがないと思われていた第四艦隊司令部に対する連合艦隊司令部のそのような不満や怒りは、口から口へと下のほうまで伝わったのであろう。「また負けたか四艦隊」と言われたのは、そのころかららしい。 この種の噂話は、それが的を得ていたかどうかを別にしても、どこまで広まっていたかを確かめるのは難しい。阿川弘之著「井上成美」によると、井上が昭和17年11月に海軍兵学校校長として着任する前に、在校生との一部の者はそのような風評を聞いたということからすると、相当に広まっていたようにも思われる。 いくさ下手といわれることは、武人にとってこれ以上なく不名誉なことである。 しかし、井上は果たしていくさ下手であったのだろうか。 |