3・昭和海軍の軍政と井上成美
井上不在中に海軍も濁流へ 

    北一輝の影響
井上は軍務局第一課B局員在職後、駐イタリア日本大使館海軍武官、さらに海軍大学校戦略教官をそれぞれ2年勤め、1932年11月1日付海軍省軍務第一課長に任ぜられるのだが、海軍軍政はこの間すごい勢いで濁流に飛び込んだようだ。それは北・大川らの陸海軍浸透工作奏功の結果で、彼らは国家社会万般の問題を捉え青年将校の危機感をあおった。特にロンドン海軍条約調印問題は絶好の手掛かりだった。これによって海軍軍政はその中枢ともいうべき最高人事が彼らの思う壺にはまる格好となった。その浸透宣伝における指導精神となったものが日本改造法案大綱だったことは言うまでもない。
この大綱は原文を数百部謄写しただけだったのを1923年5月、改造社出版として公刊した。発売禁止となりそうな箇所を手直してではあるが、宣伝上の一大躍進を可能にした。これをやったのは西田税で、彼は陸士同期の秩父宮に献じた。この分は公刊前の謄写版別のものだったかもしれない。
思想的浸透度合いは数的に測れるはずがないが、海軍よりも陸軍での浸透が進んでいたらしく、陸大兵学教官石原莞爾少佐が1927年12月に起草した「現在及将来二於ケル日本ノ国防」をみると、その発想が前出の日本改造法案大綱の巻八や結論部分に驚くほど似ている。石原のそれは国防戦略の見地からのものだが、合理主義・自由主義・国際協調主義的な米英的文明文化を人類堕落の根源とみなし、力主義、統制主義、国家主義的をもって人類堕落を防ぐ要ありとの見方に立ち、そのため米英陣営を屠りうる強大な大東亜連合を組織すべきで、その組織のリーダーたるものはわが日本を置いてほかに求めないといった発想は瓜二つである。
    石原莞爾と井上成美の相違点 
ここに出てきた石原莞爾と井上成美とは、陸軍・海軍との違いはあるが、年齢的にも、生まれた地方風土や家柄でも極めて似ている。石原は仙台地方幼年学校出だから、ともすれば同じころ仙台二中に通っていた井上と街頭などですれ違ったことがあるかもしれない。大尉時代に第一次大戦直後の欧州大陸で数年勤務したというのも奇縁である。両人とも抜群に頭がシャープで先見的で、気性も剛毅で激しくズケズケ物を言う。この二人が面と対して議論したかどうかは不明だが、もしそんな記録が残っていたならば昭和激動期研究の貴重な資料となり得る。
石原は前記論文を東伊豆の日蓮ゆかりの地にわざわざ出かけて書いた。石原の入信は1919年4月で、前年陸大を優等で卒業し、国防学探求熱を胸に燃やしつつ田中智学の講習会に列してであった。当時の智学は全国憂国知識層に令名極めて高い日蓮主義者だったが、その日蓮主義は代表作の隋一「宗門之維新」(1900年著)の示す通り、日本国体と日蓮主義者を結び付けて世界統一を図るにあった。北の入信は智学との直接関係がなく1914年ごろ「支那革命外史」執筆中の法華経踊読のうちに霊感的に行われたとのことだが、すでに1906年「国体論及び純正社会主義」を出版した北は智学の「宗門之維新」の影響を受けていたのではないか。
ともあれ石原はこれを翌年早速秩父宮や辻正信など陸大第二学年生に、「欧州古戦史」講座の結論として講述した。同年秋、関東軍参謀となり3年後に柳条湖事件を起こした。この昭和激動期の開幕ともいえる事件発生の半年前、1931年4月石原は右論文を「唯其ノ精神ヲ読マレンコトヲ切望シ」関東軍要所に印刷配布した。「其ノ精神」を満州事変の精神とすべく。
この満州事変が世界列国の大非難を浴びたにもかかわらず、日本国民世論が待ってましたとばかりに歓迎したのは、すでにそれまで「日本改造法案大綱」的思想が国内に広く深く浸透していたからではないか。
   
米英との戦争が必至かつ切迫している、というものの考え方・見方は北・石原らの世界観そのままである。加藤・末次コンビが1921年、ワシントン会議で対米七割主張で加藤友三郎全権に食って掛かったのも、すでに要所に配布の「日本改造法案大綱」の影響下にあったからであろう。
ロンドン条約問題に関連する北らの暗躍については疑うべくもない。特にこの問題をあれほど猛烈激化する役割を演じた「統帥権千犯」なるスローガンが北の造語ということである。北は何か重大問題があると妻に法華経の呪文のようなものを唱えさせ、それによってヒントを得ることしばしばだったそうだが、「統帥権千犯」スローガンもその一例のようだ。北研究で有名な田中惣五郎の「北一輝」伝にもその記載があるらしい。




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