信玄の侵攻作戦
 ~伊奈侵攻戦~
 


 杖突峠を越える
諏訪と伊奈の境が杖突峠である。武田軍が諏訪から伊奈へ駒を進めるには、どうしても越さなくてはいけない峠であった。
武田の軍勢がはじめて杖突峠を越えたのは、諏訪侵攻戦の時と同じ天文11年(1542)のことであった。その年の9月25日、諏訪の宮川河畔で、安国寺の戦いと呼ばれる激しい戦いがあり、高遠頼継が武田軍に完膚なきまでに叩きのめされ、頼継側に7,8百の犠牲者が出たと言われ、頼継の弟頼宗や矢島満清の子なども討ち死にし、かろうじて杖突峠を越えて逃げ帰ったのである。武田軍を率いていた板垣信方は、そのまま追撃することを命じられ、安国寺の戦いのあった翌26日には武田軍の一部は杖突峠を越えていた。
このとき、武田軍の先鋒として伊奈に侵攻していったのは駒井政武で、政武は守矢頼真に手引きされて藤沢口に進んだ。そこに、高遠頼継に呼応して挙兵した藤沢頼親の居城福与城があったからである。政武率いる武田軍は、周りに火を放って進み、ついに福与城を囲んで攻め立て、藤沢頼親を降伏させている。
一方、板垣信方の軍は、上伊那口、すなわり有賀峠を進み、高遠軍の残兵を一掃し、諏訪へ凱旋した。ここにおいて信玄は、板垣信方を諏訪郡代に任命し、上原城に在城させて諏訪の支配にあたらせるとともに、伊奈への侵攻の足場とさせたのである。しかし、藤沢頼親を降伏させたとはいえ、武田氏による伊奈侵攻はまた始まったばかり。本格的な伊奈侵攻は、高遠頼継の逆襲を契機として始まったといってよい。
 高遠頼継の逆襲
頼継にしてみれば、信玄と手を結んで惣領家の諏訪頼重を討ったのに、惣領家の座にもつけず、諏訪領の半分しか与えられなかった不満があった。その不満が高じて信玄と一戦を交えたのに、かえって敗れて高遠へ閉じ込められてしまった。全く持って面白くなかったであろう。
この思いは、頼継の同族藤沢頼親にしても同じだった。頼親の場合は、城を囲まれて降伏させられている分、余計に悔しさが募っていたことであろう。
天文13年(1544)9月、信玄が諏訪・伊那地方にのみ力を投入できる状況ではないと判断した藤沢頼親は、信玄に反旗を翻し、再び高遠頼継と結んで武田の支配に抵抗し始めた。
信玄はすぐに伊奈侵攻の軍を組織し、10月16日、自ら先頭に立って杖突峠を越えて伊奈に攻め込んだ。だが信玄は、福与城を攻めるべく駒を進めるが、その支城ともいうべき荒神山城を攻め落とすのに手間取ってしまった。荒神山城は容易に落ちなかった。だが落とさずそのまま進めば、背後を衝かれる危険があり、城を包囲したのだが、事態は思わぬ展開を見せた。
荒神山城藤沢頼親方の後詰として、高遠頼継が信玄の背後に迫ってきたのである。城攻めをしている場合、攻める側にとって最も警戒すべきなのはこの後詰であった。信玄は荒神山城内の藤沢頼親勢と、背後から迫る高遠頼継勢に挟み撃ちにされる恐れが出てきたのだ。しかも信玄にとって衝撃的事実が判明した。高遠勢に小笠原長時からの援軍も加わっているという情報がもたらされたのである。
「これ以上、荒神山城を攻めるのは危険だ」
信玄はそう判断し、11月1日城の周囲を放火しただけで撤退命令を下し、挟み撃ちにあう前に伊奈から脱出し、3日には全軍を上原城に戻し、信玄自身、9日には躑躅ヶ崎館に戻っている。この時の伊奈侵攻は全くの失敗であった。
 高遠城・福与城を落とす
引き上げる信玄軍を追う形で、高遠軍が諏訪へ侵攻し、12月8日には諏訪上社の神長官守矢頼真の屋敷に放火するなど荒らしまくったが、当時は雪が深く、信玄は援軍を送ることすらできない状態だった。頼継は籠城して藤沢頼親・小笠原長時
年が改まった天文14年(1545)4月、信玄は雪解けを待ってようやく伊奈へ侵攻を開始した。4月11日、7千の軍勢で信玄は躑躅ヶ崎館を出発、14日には上原城に到着。翌15日未明には杖突峠にのぼり、そこに布陣した。その日、すでに先鋒は高遠城に攻めかかり、頼継は籠城して後詰を期待したが、それも間に合わず、結局17日、城を捨てて逃亡してしまった。
高遠城を落とした勢いで、4月20日から信玄は藤沢頼親が拠る福与城攻めを開始した。しかし、福与城が天竜川沿いに臨む天嶮に築かれていたことと、城兵が良く守ったということもあり、武田軍の猛攻にもなかなか落ちず、かなり長期な戦になってしまった。
信玄は、このときの伊奈侵攻に際しては、単独では困難と判断し、同盟軍である今川義元に援軍を申し入れていた。その今川の援軍と武田軍の板垣信方隊が、福与城の支城龍ヶ崎城を攻め、6月1日に落としている。
龍ヶ崎城は頼親と小笠原長時とをつなぐ連絡・補給のルートにあたっており、龍ヶ崎城の落城によって、福与城の城兵たちの戦意は著しく低下した。そして、その戦意喪失を見透かすかのように、武田方から頼親へ降伏勧告が送り付けられたのである。形式上では和議だが、実質的には頼親の降伏勧告だったことは間違いがない。6月11日、頼親は弟の藤沢権次郎を信玄のもとに人質として差し出し、福与城はその日のうちに焼かれてしまった。
ここにおいて、伊奈の大半は信玄の領有するところとなった。しかし、高遠城・福与城・龍ヶ崎城といった位置からも明らかのように、伊奈といっても、のちの上伊那郡の範囲であり、下伊那郡の方に及ぶようになるのは10年近くの歳月が必要だった。
これは、下伊那郡には松尾城に拠る小笠原氏が勢力を持っており、信玄としてもその小笠原氏を簡単に攻略することはできなかった。信玄が下伊那郡まで勢力下に治め、完全な伊奈統一を果たすのは天文23年(1554)のことだった。
この年の7月24日、信玄は神之嶺城に知久頼元を攻め、さらにその勢いで松尾城の小笠原信定を攻め、さらに吉岡城の下條一族を屈服させ、伊奈南半分を抑えることに成功した。
信玄は重臣の秋山信友を伊奈郡代に任じ、伊奈の支配にあたらせているのである。




TOPページへ BACKします