蘇我氏の成立と稲目 ~蘇我氏の存在意義~ |
そのため、元々「聖徳太子に始まる国政改革を邪魔した」悪役の印象が付きまとっていた蘇我氏は、「大化の改新によって滅亡した」と思われがちである。また、一般的には「壬申の乱では、蘇我氏をはじめとする大豪族が中心となっていた近江朝廷を大海人皇子が倒し、神とも称された天武天皇となって律令国家を建設した」ことで、めでたく日本古代国家が完成するかのように考えられているものと思われる。 しかし、蘇我氏は大化の改新といわれた「乙巳の変」で滅亡したわけではない。滅ぼされたのは蝦夷・入鹿といった蘇我氏本宗家のみであって、その後も中央豪族である大夫(マヘツキミ)層を代表し、倭王権を統括する大臣家としての蘇我氏の地位は揺るいでいない。蘇我氏の氏上が蝦夷・入鹿系から倉麻呂系に移動したのに過ぎないのだ。
そして蘇我氏は氏族としての在り方を変えながらも、古代を生き延び、中世を迎えているこのあたりの経緯は他の古代氏族と何ら変わりはない歩みである。 また、蘇我氏は元来、決して旧守的な氏族ではなかった。それどころか蘇我氏は、倭国が古代国家への歩みを始めた6世紀から7世紀にかけての歴史上で、最も大きな足跡を残した先進的な氏族であった。渡来人を配下においての技術や統治の方式、またミヤケ(屯倉)の経営方式に見られる地方支配の推進を見ていると、蘇我氏主導であっても、つまり、たとえ乙巳の変や白村江の戦や壬申の乱が起こらなくても、遅かれ早かれ、いずれは倭国は古代国家へと到達していったのではないか。 |