3・池田屋事件
会津藩の信頼を得る

    長州間者征伐
芹沢鴨の一派は一掃された。芹沢の腹心とされた野口健司は、当日は角屋に残っていたために無事だったが、この年の12月27日に切腹させられている。21歳だった。罪状は明らかではないが、新選組を名乗る偽隊士の罪を着せられたともいわれている。
これで新選組を完全に掌握した近藤たちだが、最初に手掛けた仕事は、長州の間者を始末することだった。
芹沢の死後まもない26日、彼らは襲われた。御倉伊勢武と荒木田左馬之允は屯所とされていた前川荘司邸で、結髪中を斎藤一と林信太朗によって刺殺され、楠小十郎は原田左之助に斬殺された。沖田総司と藤堂平助に狙われた越後三郎と松井竜三郎は逃走し、彼らとは別に潜入していた松永主計も、井上源三郎に追われたが、背中に軽傷を受けただけで逃げ延びている。
長州の間者も、隊内から一掃された。そしてこの間者たちを、芹沢暗殺の犯人に仕立て上げたのだった。彼らはこの計画のため、この日まで生かされていたに過ぎなかった。
巧妙な策だった。暗殺当夜、角屋に残ってはいたものの、永倉新八のような大幹部でさえ生涯、刺客に御倉伊勢武が加わっていたことを疑っていないほどであった。
こうして芹沢問題を「処置」した新選組は、会津藩からの信任を得ることになった。
10月10日には、近藤は祇園の一力楼で開かれた公武合体派の会合に招かれ、会津、薩摩、土佐などの周旋方の前で、発言を求められている。
「公武合体専一いたし、その上幕府において断然攘夷」
公武合体の上で攘夷を行うべきだという近藤の意見は、別に特筆するものではない。続けて述べた海岸防禦の必要性についても、常識論の域を出てはいなかった。しかしその所論よりも、近藤に代表される新選組というものの立場が、この一件だけを見ても、芹沢以後に大きく変化していることがわかる。
    土方の位置づけ
かつて芹沢と近藤が対立し、さらには会津藩がその処置を命じた背景には、水戸学と公武合体論という思想の対立もあったことは疑えない。結果的に大和屋焼き討ち事件は、新選組から水戸学を排除する大義名分ともなっていたのだった。
さらにこのころ、新選組に対して禄位を授けようという動きもあったが、近藤はこれを辞退している。新選組は今でこそ市中見廻りの任に就いているが、本来は攘夷を目的とした浪士団であり、厚遇を受けてその志が鈍るようなことがあってはならない。仮に今後、多少の武功を挙げる事が出来たら、その節はありがたく禄位を受けたい、と守護職に対する上書でも述べている。
こうして新選組に対する会津藩の信頼は高まり、やがて近藤は「政治」というものに関心を抱くようになる。そのとき、近藤を補佐したのが山南敬助だった。
山南は仙台の出身で、近藤より2歳、歳三より1歳年下の28歳。仙台の剣術師範山南某の次男で、江戸に出て北辰一刀流を学ぶうちに近藤に出会い、試合に敗れたのを機に天然理心流の門に入ったという。そのまま試衛館の食客となったようで、文久元年に大国魂神社で行われた、近藤の理心流襲名披露の野試合にも参加している。そして、壬生浪士組以降も歳三と同じ副長職についていることから、近藤に信頼されていたことは間違いない。
山南は常に歳三よりも上位、しかも近藤派の中では常に近藤に次ぐ二番目に位置付けられている。これに対して歳三が対抗意識を持った様子はない。試衛館のころから、すでに出来上がっていた席次ではないだろうか?ごく自然なことと受け止めていたであろう。
歳三本人が望むと望まないとにかかわらず、この序列に変化を生じさせるには、歳三自身の新選組という組織に対する意識、あるいは自分自身についての認識が、まだ不足していた。副長として新選組を運営するのではなく、単にその一員として行動していたに過ぎなかった。
    初心を忘れた土方?
11月に、歳三が小野路の小島鹿之助に送った手紙がある。
本文は、松本捨助という同郷の天然理心流門人が、入隊を願って壬生を訪れたが帰郷させたことを報告し、以下は簡単な消息文となっている。ところがその追伸に、歳三は「本音」を書いていた。
「尚々拙義ども報国有志とめがけ、婦人慕い候こと筆紙に尽くしがたく・・・・」
いかに自分たちが持てているかを記し、さらに自分自身については、島原では花君太夫ほか、祇園では芸者3人ほど、北野では君菊と小楽という舞妓、さらに大坂の新町では若鶴太夫ほか2,3人、北の新地では多すぎて書ききれないほどだ、と細かく述べ、さらには「報告の心を忘るる婦人かな」と、得意の俳句で結んでいる。
この句ほど、この頃の心境を正直に物語っているものはない。政治であれ、組織であれ、それなりに腐心はしているつもりでも、江戸では考えられなかったような状況に、まさに「報国の心」を忘れてしまっていたのだった。
永倉新八の「新選組顛末記」によると、この頃新選組は幕府によって、局長は大御番頭取として月額50両、副長が大御番組頭で同じく40両、副長助勤が大御番組で20両、平隊士でさえ大御番組並で10両を渡されていたとされる。
しかし一介の浪士団に、このような処遇が与えられるはずはない。月々の手当も高すぎる。元治元年の記録に、新選組の俸給は江戸の新徴組と同じとしたものもあり、翌年の新徴組平隊士は年額「25両3人扶持」だった。新選組がこのような待遇を受けたとすれば、慶応3年に幕臣として取り立てられて以降のことではなかっただろうか。





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