江戸城の歴史
 ~家康の江戸城~
 


 江戸の将来性
天正18年(1590)8月1日、徳川家康が江戸城に入城した。家康は秀吉の命により、関東257万石の領主となった。
江戸城の築城工事は、家康の代から秀忠、家光の三代にわたって行われ、慶応3年(1867)の大政奉還まで、江戸幕府の中心として、天下人の城となる。総構えが完成するのは三代家光のとき(寛永13年=1636)で、家康入城以来46年後の事である。その後、五層天守は3度築かれ、3度目の天守が明暦3年(1657)の大火(振袖火事)で焼失すると、以後は三層の富士見櫓が天守の代用となった。
家康の本拠地がなぜ小田原城や鎌倉ではなく、江戸になったかという理由は、江戸の水運等を考えれば妥当だったと思えるが、それは秀吉の意思でもあり、家康の意思でもあったとするのが妥当であろう。家康以前の政権である鎌倉幕府や後北条氏は江戸ではなく、相模国の鎌倉や小田原という関東でもかなり西側の地を本拠地にしていた理由としては、中世までの関東は、南関東と北関東の構造的な対立が相次いでおり、さらに西国と東国の対立が依然として続いていたため、政情不安な江戸では本拠地としてふさわしくなかったと解釈できる。秀吉の全国統一により、ようやく江戸という地を選ぶことができたという解釈もできるかもしれない。
 江戸の街を切り開く
豊臣政権か最大級の大名として江戸入りした家康は、関東257万石の太守に相応しい城を建造すべきと家臣より進言されたが、当時の家康は朝鮮出兵へ参陣する必要もあり、それどころではなかった。家康は西の丸を築く以外は、高石垣も天守も築かなかった。西の丸は文禄元年(1592)に築城を開始し、その堀の揚げ土で日比谷入り江を埋め立て始める。当然、当時の作業はすべて徳川譜代が行った。また、この頃より寺や民衆を移築させ始めている。
家康が専ら熱心に取り組んだのは、城下町整備と治水工事だった。家康はまず、日比谷入り江に注ぐ平川の河口から江戸前島を真っ直ぐ横断して江戸湊に至る水路「道三堀」を開削した。堀の名は御典医・今大路道三の屋敷が付近にあったことにちなんで名づけられた。この道三堀は日比谷入り江埋め立て後、江戸城中心部に通じる重要な舟入り堀となる。さらに小名木川を掘って塩の産地・行徳と江戸城を結ぶ運河を作った。次に、飲料水確保のため上水道(神田上水)を整備し、勾配を利用した下水道の整備を行った。
 江戸城に愛着がなかった?
関ケ原の戦い後、慶長8年(1603)家康は征夷大将軍となると、天下普請により本格的に巨大な築城に着手する。城の縄張りは外様大名で築城の名手藤堂高虎が担当した。同年、神田山を切り崩し、前島(現在の東京駅付近)の湿地帯及び日比谷入り江を完全に埋め立てる、大規模な海岸埋め立て工事を行った。ちなみに、日比谷入り江に始まる一連の江戸湊埋め立て目的は、明らかに艦砲射撃の回避であった。
翌慶長9年、家康は西国大名に巨石を集めさせ、石垣普請も開始する。
なお、家康は慶長10年に将軍職を三男の秀忠に譲り、自らは大御所となって駿府城に移っている。家康が50歳で江戸城に入り、没するまでの26年間で、実は江戸城にいたのは僅か5年間程度であった。江戸入府後の家康は、朝鮮出兵で名護屋城に参陣したり、秀吉の死後は政権運営の代行などで伏見城に在城したり、さらには駿府城に移ってからは11年間没するまで駿府城におり、江戸城に在城した時間は意外にも少ないのである。
そもそも家康は、本当に政権を江戸にしたかったかどうかも疑問で、当初は伏見の政権を樹立したかったが、外様の西国大名が存在し、基盤が盤石でなかったため江戸をやむなく選んだという説もある。また、家康にとっては未開の地江戸よりも、幼い頃を過ごした駿府の方に遥かに愛着を感じていたはずであり、家康が今日東京の生みの親として言われにくいのは、そのあたりも起因しているのかもしれない。






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