将軍家綱の輔弼役として ~慶安事件~ |
徳川幕府開幕以降、2代将軍秀忠が改易した大名家は外様大名23人、徳川一門及び譜代大名が16人、計39人であった。家光が改易した数は、外様大名29人、譜代ないし親藩は20人、計49人、石高総計400万石に達していた。この武断政治によって諸大名中に不満が昂じていたため、将軍の交代期にあって、彼らを充分に牽制しておく必要があったのだ。 その思いは決して杞憂などではなかった。家光逝去から3か月後の慶安4年(1651)7月9日、徳川一門の三河刈谷藩主で家光に長く仕えた松平定政が、長男定知と共に不意に出家し、井伊直孝、阿部忠秋宛に意見書を提出するという行為に及んだのである。その意見書には、「今の執政の人々が輔け奉るやうならんには、君未だ御幼稚なり、天下乱れん事遠きに有るべからず」という内容だった。続けて井伊直孝宛に送られてきた書状には、刈谷2万石から兵器、雑具に至るまで「尽く将軍家に奉るよし」と記されていたという。 能登守と称されていた松平定政は、以後黒染の衣をまとって銅の鉢を手にし、「松平能登の入道に、ものたべものたべ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と言いながら町々を徘徊していたが、狂気の沙汰とみなされて、その兄の伊予松山藩主松平定行に預けられた。
定政は、この奇行に走る以前に林道春らを招き、意志を打ち明けて「後日の証人」となってくれるよう求めている。それをあえて狂気の沙汰として、穏便に処理したのは時の幕閣の懸命さを物語っているが、「物をくれ、物をくれ」と言いながら江戸城下をうろつきまわった大名の姿は、窮乏する武士階級の不満を代弁していたのではなかろうか。 しかし、この窮乏は旗本たち以上に、家光時代に大量に発生した浪人たちの方がさらに深刻な状態であったのではないか。 まもなく、松平定政の予言「天下乱れん事遠きにあるべからず」の正しさを実証するかのように、江戸と駿府に大事件が起こった。家綱政権下の幕閣の能力を図るには絶好の試金石となったこの事件は、「慶安事件」あるいは「由井正雪の乱」と言われている。武装蜂起する直前に一斉検挙で終わったこの事件の実態は、窮乏する一方の浪人たちの力を糾合して徳川の天下を覆滅しようという謀反計画だった。
ところがこの権之丞は、老中松平信綱の家臣であった。早速信綱に訴えたところ、弓師藤四郎という者からも、不審な人物から弓百張りの注文を受けた、という訴えがあった。 7月23日深夜、丸橋忠弥とその妻子、同志3人はあっけなく捕縛された。翌24日にはこの情報が駿府城代大久保忠成に伝えられたため、大久保は急ぎ町奉行に由井正雪の居場所を探索させた。すると間もなく茶町の梅屋太郎左衛門方に、正雪と8人の同志が紀伊殿の家中という名目で当宿していることが判明した。 25日深夜、太郎左衛門方の表裏から町のあらゆる辻までびっしりと固めたうえで、町奉行所の与力が正雪に奉行所に出頭するよう命じた。計画が漏れたと知った正雪は、同志たちと共にその場で自殺。8月10日に丸橋忠弥ら28人が磔にされ、7人が斬刑に処されることによって、この大事件は速やかに終息したのである。 彼らの行動計画は、まず大風の夜を待って小石川の硝煙蔵を焼き、驚いて登城してきた老中たちを殺害してしまう。その混乱に乗じ、紀州様御登城と称して江戸城を乗っ取る一方、正雪率いる本隊が駿府城を襲撃して家康の財宝を奪い、久能山に立て籠もる、というものだった。 駿府の紺屋の倅から身を起こし、江戸へ出て軍学者として成功した正雪は、就職口の斡旋を求めてくる浪人たちに同情するあまり、家光の死を奇貨として非常手段に訴えようとしたのである。 正雪の遺言には松平定政一件に触れたくだりもあり、定政の諫言を狂気と決めつけてしまうからこそ政道が乱れるのだ、との批判が加えられていた。松平定政一件と由井正雪の謀反計画とは、ともに前政権への不満に発し、政権交代期のタガのゆるみに期待して発生したわけで、これらに対する措置を誤ったならば、新政権は大いにその鼎の軽重を問われることになるところだった。 雨降って地固まるという、これを無難に乗り切ったことにより、保科正之を含む新閣老たちは武断政治に別れを告げ、文治主義の時代を切り開いていくことになるのである。 |