将軍家綱の輔弼役として ~家光の信頼篤く~ |
「会津松平家譜」正保2年(1645)4月の項に次のようにある。 「23日徳川家綱元服す。大将軍(家光)正之に命じて理髪せしめ、盃及び其の佩びる所の刀を賜ふ。正之大将軍に太刀及び来国光の刀、世子(家綱)に守家の太刀、行光の刀及び鞍馬を献じて之を賀す」 正之は次期将軍家綱の元服に際し、烏帽子親となる武門最大級の名誉の役割を割り振られたのである。 同じく、「会津松平家譜」慶安4年(1651)の項に言う。 「4月6日大将軍服するところの萌黄直垂、及び烏帽子を正之に賜ひて曰く、自今代々此の色の直垂を用うべし。平生の形姿も亦大将軍の鹵簿(行列)を模すべしと」 家光は萌黄の直垂を好んだので、諸大名たちは彼に遠慮して萌黄の直垂を着用するのを慎んでいた。その萌黄の直垂を着用し、かつ「大将軍の鹵簿」を模倣せよとの台命が下ったというのは、家光が自分と正之とを「形」と「影」の関係にあると認識していたことの証である。
しかも、四代将軍となるその世子家綱は、まだ11歳の少年に過ぎなかった。もし家光が死亡すれば、徳川幕府始まって以来の少年将軍が誕生するわけで、家光としては「誰が家綱の後見人として適切か」という問題をよく考えておかなくてはならなかった。 家光が最もその白羽の矢を立てようとしたのは正之であった。家綱の烏帽子親を指名するほどである。だからこそ家光は、逝去に先立って正之に、実質上の副将軍として行動するよう求めたのである。 同年4月24日いよいよ臨終の時を間近にした家光は、まず酒井忠勝の口を介し、御三家の当主の徳川光友(尾張藩藩主)、徳川頼宜(紀州藩藩主)、徳川頼房(水戸藩藩主)に対して「天下万機の事ども。宗室の方々其身に引き受けて、輔導せられん事」を依頼した。彼ら3人が退出した後、松平光長(越後高田藩主)、松平直政(信州松本藩主)、 前田利常(加賀金沢藩主)がこの順に招かれて「御旨」を伝えられ、続けて正之が呼ばれた。
家光が正之に対し、将軍家狩猟の地に鷹狩をするのを許したことがあるが、その地で正之が鷹狩りを行った時の話である。正之が家光に獲物の雁二羽を献上すべく登城してきたとき、家光に近侍していた酒井忠勝が訪ねた。 「さぞかし獲物が多かったのでしょうな」 正之はこれに対し、「いいえ、献上の二羽の他には獲物はありませんでした」と率直に答えた。 之を聞いた酒井忠勝は色をなし、家光も面白くなさそうな顔をした。もし不猟だったとしても、将軍家の猟場で狩りをする事を許されたのだから、このような場合は「おかげさまで大猟でした」と答えるのが普通だからであろう。 家光の前から退出した後、酒井忠勝は正之に忠告した。 「肥後守殿の言は、ちと正直すぎまするな」 すると正之は、まじめに応じた。 「事小なりとも、お上を欺く罪には大なるものがあります。だからそれがしは、正直に申し上げたのです」 これを聞いた酒井忠勝は、あらためて正之の至誠の心を知り、感賞したという。以上は「会津松平家譜」の記述によるが、このような忠誠一途の精神の持ち主である正之が「託孤の遺命」に背くはずがなかった。 |