初期徳川政権において、家康に近侍して要務に参画していく人々によって運営していく政治を、一般に出頭人政治という。つまり、家康の寵愛を受け政治の中枢に入っていく人たちの行う政治の事である。前項で紹介した本多正信は代表的な出頭人であり、その子正純も典型的な出頭人型の吏僚派家臣であった。正純は永禄8年(1565)に正信の長男として生まれ、幼名を千穂、のち弥八郎と称した。少年期より家康に仕え、日夜お側にいた為厚遇されたという。この正純が吏僚派家臣として頭角を現してくるのは、慶長5年(1600)の関ケ原合戦の前後からである。これは家康の側近として、政治・軍事を補佐していくための活躍であり、翌6年には上野介に叙任している。二元政治の展開とともに正純は駿府大御所の側近として次第に重要な位置を占めている。正純が果たした役割はどのようなものであろうか。島津や細川をはじめ、有力な外様大名に城普請の助役や免除を命じたり、上方大名の人質、また、代官的豪商による経済政策もその指揮下にあったといえる。そして正純との話し合いなしに金山の運上を公表することもできなかったという。
特に正純が幕府政治において重要な位置を占めたのは外交関係である。慶長9年(1604)に正純と京都所司代板倉勝重によって初めて糸割符の定書を公布している。これによっても正純が生糸貿易の統制を直接すすめていたことがわかる。さらに外交関係の文書には、正純自らの署名や担当が明記されているものが圧倒的に多く、慶長9年から10年にかけて安南国(ベトナム)の実力者で大都統の阮漢に宛てた書状にも「委細は本多上野介(正純)によって申す旨」と記してある。その他、対外的な国王・総督宛の文書は、いずれも正純の署名によって出されている。
レオン・パジェスの「日本キリシタン宗門史」によると、ジャン・ロドリゲスをはじめとする家康のヤソ会宣教師の引見は、常に正純の指示によって進められており、外交関係の行事の最高責任者であった事がわかる。スペイン人でフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロの覚書によると、正純を「外交内政顧問会議長」とも呼んでいる。これらによっても正純は家康政権において、まさに、後の老中・大老と同様の要職にあったといえるのである。
父正信は、非凡な洞察力や才覚とともに、清廉寡欲な性格であったと言われている。これに対して正純も綱紀に極めて厳正であったという。そのため、のちの政界ではしばしば賄賂が横行するが、家康・秀忠の時代には、幕閣ではそのようなことはなかったのである。
正純を表する人は、父の正信よりさばけていて、文事をよく理解していたが、ただ、非常に辛辣なところがあったと言われている。しかし、正純も父正信同様に家康の好みにあった人物であったといえよう。二元政治において、実際の重要政策は全て駿府大御所政治によって決まっており、それだけに駿府側近の正純の役割は極めて重要であったといえる。
正純は慶長13年(1608)の頃、3万3千石を拝領し下野国小山城主に封じられていた。元和2年(1616)に家康没後の5月に、下野国安蘇郡佐野で2万4千石が加増され、合わせて5万7千石となった。しかし正純は、常に要職にあった為、大半は駿府と江戸に居住していたとみられる。元和3年10月、日光山の東照宮の造営が決定されたとき、正純は総奉行に命じられ、この工事の完成の為下野の諸大名や旗本は農民を率いて日光詰を行っている。正純は同5年には小山から宇都宮へ転封している。
宇都宮15万5千石となった正純は、その格式を整えるため、宇都宮城の大改築と城下町の整備を行った。だが、元和8年(1622)10月、正純は出羽国山形城主最上氏の改易のため城を受け取りに出張中、突然、宇都宮城を取り上げられ失脚した。失脚の理由には、宇都宮釣天井事件その他の諸説があるが、老中酒井忠世と土井利勝が署名した失脚の理由書によると、元和4年6月、福島正則が居城広島の城普請の届け出が遅れたことを弁明して、正純はもし正則を改易に処する事があったならば、諸大名のうち10人ほどが離反すると、事実無根のことを言って将軍秀忠を脅かしたこと、また、宇都宮城拝領のいきさつを忘れ、城替えを幕閣に直訴したことなどがあげられている。
いずれにせよ正純の改易は、秀忠から家光へ政権が推移する中で発生した。権力争いの犠牲とみることができるのであるが、本多父子の死と失脚は、明らかに戦国期から見られた出頭人政治の終焉を告げるものであった。 |