文京区の寺町散歩
 1、本駒込


 白山神社
円乗寺駒込土物店跡南谷寺(目赤不動)吉祥寺天祖神社駒込名主屋敷駒込富士神社木戸孝允屋敷跡六義園
   ~このコースの主な概要~
地下鉄都営三田線の白山駅から散歩開始。このあたりは東に千駄木・根津、南は本郷・春日、西は小石川と寺社が多い地域となっており、歩くにはは絶好のポイント。
白山神社を参拝した後は、ひたすら本郷通りを北へ向かおう。
吉祥寺は現在の吉祥寺に移る前この駒込に寺社があった。その後、天祖神社、名主屋敷、富士神社があり、この界隈が田園風景が広がっていた場所であると推察される。このあたりに木戸孝允の邸宅があったのだが、ほとんど遺構が残っていないのでわかりづらい。最後に、六義園で庭園を眺めながら散歩を終えたい。
【白山】
名前の由来は、白山神社である。天歴2年(948)に加賀一ノ宮の白山神社を分祀し、この地に祀ったためである。徳川五代将軍綱吉が篤く信仰した。これは、綱吉が将軍就任の前、館林藩主だったとき、白山に屋敷を構えていたことによる。
江戸時代までは小石川村、駒込村の一部であったが、明治年間に入って東京市となり、昭和22年(1947)に文京区の一部となった。同地にキャンパスを持つ東洋大学と深い関係にあり、東洋大学の前身である哲学館が明治30年(1897)に移転した時から、白山=東洋大学の印象が強くなっていった。  

【駒込】

名前の由来は諸説ある。日本武尊が東国征伐に出兵した折に、この界隈で軍馬を求めたとところ、たちまちに千頭を超える馬が集まり、「駒(馬)混みたり」と評したところからという説、単純に馬が多数放たれていたという説、高麗人が住みついていたからという説などがある。
明治期には木戸孝允の屋敷も有り、この近隣に木戸坂と命名された坂もある。

JR駒込駅は明治43年(1910)に開業されましたが、笑っていいとものクイズコーナーで、石原良純が駒込の駅名が思い出せなかったということで、石原が駒込大使を勤めてる。(笑)
また駒込は、寺が大変多い寺町でもあり、明暦の大火をはじめ、大火が起こるたびに寺院の移転地となったため、現在でも本駒込には20の寺がある。

 白山神社 祭神はククリヒメノミコト、イザナギノミコト、イサナミノミコト。天歴2年(948)加賀一宮白山神社から勧請して、現在の地に創建したといわれる。
元和年間、2代将軍秀忠の命で巣鴨原に移転。その場所が館林藩主松平徳松(のちの五代将軍綱吉)の屋敷地になった為、明暦元年(1655)に現在地に遷座。
綱吉の屋敷になった小石川御殿は白山神社の跡地であったことから、白山御殿と言われた。その縁で、元禄年間には桂昌院(綱吉の母)の崇敬がことのほか厚く、境内に添地を拝領して拡張するなど、幕府の庇護を得た。境内には「江戸名所図会」に描かれた旗桜があり、源義家(八幡太郎義家)がこの桜に旗を掲げて戦勝を祈願したといわれている。
亡命中の孫文が白山に住んでいた宮崎滔天宅に寄寓していたことがあり、明治43年(19105月、ともに白山神社に詣で境内の石に腰かけて将来への抱負を語り、このときハレーすい星と思われる流れ星を見て革命を誓ったという記念碑「孫文先生座右碑」もある。
境内には3000株の紫陽花が植えられ、毎年6月に文京あじさい祭りが行われる。この期間、富士塚が一般公開される。また、江戸時代には歯痛に御利益があると信じられ、歯ブラシ供養も行われる。

 
円乗寺 

天正9年(1581)に密蔵院として円栄によって開創。八百屋お七の墓がある。
お七の生家は駒込片町で有数の八百屋であった。
天和2(1682)近くの大円寺出火でお七の家が焼け菩提寺の円乗寺に避難した。
やがて家は再建され家にもどったが、恋仲になった円乗寺の小姓山田佐兵衛に会いたい一心で付火をした。
放火の大罪で捕らえられたお七は、天和3年火あぶりの刑にされた。

 
駒込土物店跡 
旧駒込浅嘉町にはかつて「つちものだな」「駒込のやっちゃば」と呼ばれた市場があった。起源は元和年間(江戸初期)とされている。もともと近隣の農民が野菜を担いで江戸に出る途中、この地で休むのが毎朝の事となり、付近の住民が新鮮な野菜を求めたところから、天栄寺境内にサイカチの大木があり、この下で休憩を取り荷分けをしたという。
明治34年(1901)に高林寺境内に移転、昭和12年(1937)に巣鴨に移転。これが現在の東京都中央卸売市場の豊島市場
 
南谷寺 

江戸五色不動のひとつ。元和年間、比叡山南谷の万行和尚が伊賀国の赤目山にて不動明王像を授かり、その尊像をもって諸国を回り、駒込村の動坂に庵を設け、赤目不動と称した。寛永5年(1628)鷹狩の途中に立ち寄った3代将軍家光に由来を述べたところ、府内五不動の因縁をもって赤目と呼ぶようにとの上意があり、現在地を賜ったという。

なお、五色とは中国の陰陽五行説に基づくもの。

 
吉祥寺  太田道灌が長禄元年(1457)の江戸城築城時、井戸を掘った際に「吉祥増上」の印刻が出たため、現在の和田倉門辺りに庵を建てたのが始まりといわれてる。その後、家康の時代に現在の水道橋付近に移転、明暦の大火の後現在の場所に再移転する。
当時、門前町の商人たちが大火後に移り住んだのが現在の武蔵野市吉祥寺町である。同地は開墾地で、吉祥寺の領地であったため、吉祥寺の名前が残った。

吉祥寺は第二次世界大戦時に戦火にあい、江戸時代からの建物は山門、経蔵のみが残っている。
吉祥寺には榎本武揚、二宮尊徳らの墓所や、八百屋お七の比翼塚などがある。
なお、同寺に江戸時代には多くの禅僧が学び、後の駒澤大学の前身となったといわれている。



天祖神社 

駒込神宮社とも言われている。文治5年(1189)源頼朝が奥州の藤原氏征伐の際、夢のお告げにより松の枝にかかった伊勢神宮のお札の大麻を見つけ、吉兆と喜んでこの地に天照大神を祀る神明宮を建立したのが起源とされている。伊勢神宮の流れをくむ神明造りの社殿が現在は残っている。

 
 駒込名主屋敷  

代々駒込村の名主を務めた高木家の屋敷。慶長20年(1615)の大坂夏の陣後、豊臣方の残党としてこの地に亡命。このあたりの開拓を赦され、代々名主を務める。

門は薬医門造りで宝永年間の建造と言われる。母屋は享保2年(1717)の建物で、式台付玄関が残っている。式台付玄関は、一般の母屋では許されず、武家でも旗本以上の屋敷にしか許されない、貴重なものである。町人からの訴えや争いの仲介をこの玄関で行ったため、名主様玄関の裁きとも言われたらしい。
現在も高木家の
方が在住している。

 
駒込富士神社   

天正元年(1573)本郷村の名主が現在の東京大学の地に富士浅間社を勧請したのが起源。多くの参詣者があった。寛永5年(1628)加賀藩前田家がその場所を上屋敷として賜る際に駒込に移転。祭神はコノハナサクヤヒメノミコト。

現存する富士塚の多くは、平地に建てられた社殿とは別に小山として築かれていが、駒込富士神社は、社殿そのものが藤に見立てた山の山頂にある点で異色。

この山が古墳であるという説も。
 
木戸孝允邸跡    西郷隆盛、大久保利通と並んで明治三傑と言われた木戸孝允が明治2年(1869に別邸を構えたところ。それ以前は旗本本郷丹後守の屋敷があった。現在も木戸坂の名が残っている。なお、靖国神社のソメイヨシノは、木戸邸にあった 桜を移植したものらしい。
写真無し 
六義園   

1695年、5代将軍徳川綱吉の側用人であった柳沢吉保が綱吉から賜わった地に下屋敷を造り、そこに造営した庭園。「詩経」の六義から、その園名がつけられている。
江戸大名庭園の代表的なものとして特別名勝に指定されている。

 
 



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