信玄の侵攻作戦 ~北信濃侵攻戦~ |
上田原の敗戦の汚名をそそごうと、その機会を狙っていた信玄のもとに、「村上軍が戸石城に終結している」という情報がもたらされ、信玄は天文19年(1550)8月28日に戸石城近くまで出陣した。武田軍が戸石城に突入したのは9月9日。ここから激しい攻防戦が8日間繰り広げられた。 ここで、信玄にとって全く想定外の出来事が起こった。城内にいる筈の村上義清がいつの間にか城を脱出し、武田軍の背後から攻め立ててきたのである。城内の兵と城外の兵によって挟み撃ちとなった武田軍は総崩れとなり、10月1日信玄は全軍に撤退を命じている。 2度にわたった敗北により、北信濃進出を目論んだ信玄にしてみれば、村上義清は分厚い壁となって立ちはだかっていた。 しかし、翌20年(1551)5月26日に状況は大きく変わった。信玄の家臣となった真田幸隆によって戸石城がおとされたのである。戸石城を信玄が得たことの意味は大きく、以来信玄は、戸石城を北信濃攻略の為の前進基地として位置付けることになった。義清は、信玄に二度勝利したとはいえ、先の戦いでかなりの犠牲者を出しており、戸石城を奪還する力は既に無くなっていた。 信玄は次第に北信濃に力を伸ばし、ついに天文22年(1553)4月9日、村上氏の本拠である葛尾城を攻め、結局城は戦わずして落ち、義清は一度、小県郡の塩田城に入って抵抗を試みたが、そこも武田軍に攻められ、遂に8月5日信濃を放棄し、越後春日山城の上杉謙信を頼って落ちていってしまった。
信玄と謙信の、主として川中島付近を舞台とする戦いは、永禄4年(1561)9月10日の八幡原の戦いが良く知られているが、実はこれを含めて5回戦っている。 第一回戦が天文22年(1553)8月、第二回戦が弘治元年(1555)7月、第三回戦が弘治3年(1557)8月、第四回戦が永禄4年(1561)9月、第五回戦が永禄7年(1564)8月、である。 信玄は足掛け12年にわたり、謙信と戦ったことになるのだが、謙信からの圧迫をはねのけなければ信玄による信濃制圧は不可能であるし、謙信にしても川中島付近は本拠である春日山城にも近く、何とか確保しておきたい土地だった。両雄が12年間戦い続けた必然性はそれなりにあったのである。 第一回戦は、布施というところが戦場になっているが、信玄の感状は残っているものの、具体的にどういう戦いがあったかは不明である。 第二回戦は、2百余日の長期対峙が特徴で、一番激しい戦いがあったのが7月19日で、信玄の感状によって明らかである。この戦いは今川義元の講和斡旋によって、両軍兵を引いて集結している。 第三回戦は、その前哨戦として葛山城をめぐる攻防戦もあった。この城は信玄の旭山城に対抗して謙信側が築かせた城であるが、武田軍の猛攻によって落ちている。 しかし、雪解けを待って謙信が4月担て軍勢を動かして善光寺平まで出陣し、旭山城を奪還。信玄との戦いに備えている。実際に戦闘があったことは間違いなさそうだが、烈しい戦闘ではなかった可能性が高い。
8月14日、謙信は1万8千の軍勢を率いて川中島へ出陣した。謙信が善光寺平に出てきたという報は、前年に完成したばかりの海津城(松代城の前身)を守る高坂弾正(春日虎綱)から烽火によって信玄のもとに伝えられ、信玄は8月18日、自ら1万6千の軍勢を率いて出陣した。 謙信は15日に善光寺に到着し、16日に妻女山にのぼり、そこを本陣として信玄の到着を待った。一方信玄は、18日に躑躅ヶ崎館を出発し、24日に茶臼山にのぼり、翌25日、山を下りて妻女山とは千曲川を挟んで対岸にあたるところに布陣し、さらに29日には全軍海津城に終結させている。 それからしばらく対峙が続き、動きがあったのは9月9日の夜であった。武田軍はいわゆる「啄木鳥の戦法」をとることを決めたと言われている。高坂弾正を別動隊の大将として、これに1万2千の兵を付けて妻女山の背後から攻めさせ、信玄自らは8千の本隊を率いて妻女山の前面、八幡原に布陣して、妻女山から出てくる謙信を待ち構えていた。 だが謙信は、夜中に妻女山を下りて八幡原に布陣していたため、武田軍の目論見は破れ、翌10日朝、八幡原での決戦となり、謙信が俄然優勢であった。のち、別動隊が戻ってきた時点で、武田軍が盛り返し、上杉軍が後退。結局勝敗はつかず、両軍兵を引いている。 第五回戦は、対陣60日に及びながら、両軍本格的に戦う意思はなく、小競り合いに終始し、撤兵している。 結局12年間に及ぶ信玄・謙信の直接対決は決着を見ずに終わった。これは信玄にとっては多大な時間ロスといわざるを得ず、その後の武田氏の戦略に大きな影響を与えたと思われる。 |