保己一の家は、荻野がもとで、塙というのは、出府後の師雨宮須賀一検校の本姓をもらって用いたものである。荻野氏はさかのぼれば、学者・詩人として有名な小野篁(803~852)を祖先とする。篁の七代の孫にあたる孝泰が武蔵守となって武蔵国に来て多くの荘園を蓄え、その子義孝は多摩郡横山(八王子市)の郷に居を構え、家運も大いに高まって、この地方に広く子孫を残すことになった。その義孝の十人の子の一人、八郎義兼は横山の野八と言われたが、その孫にあたる李兼が、外戚の祖父相模守源有兼の養子となって相模に移り、その孫李時は相模国愛甲郡荻野に住んで荻野五郎と称し、荻野氏の始祖となった。この李時の父李定は、保元の乱(1156)に源義朝に従って戦功があり、その後頼朝に仕えて鎌倉武士として名も高かったが、李時は治承の乱に大庭景親について頼朝に背いて殺された。しかし他の兄弟一族は鎌倉方の御家人となったので、李時の子供らもそれに従って鎌倉に仕えるものがあった。武蔵にはもともと縁故の深い系族も多かったので、その方面に移り住む者もあったが、大坂夏の陣に豊臣方として大坂城に籠り、世が徳川にものになると武蔵に帰って児玉郡の保木野村に隠れ住んだ荻野何某があって、それが保己一の直接の先祖にあたる。それからはもっぱら農業に従事し、保己一の父の宇兵衛に至っている。
父の宇兵衛という人はどういう人であったのか。保己一の門人である中山信名の「温故堂塙先生伝」には、「陰徳を好む性質で、人の為にもわが身を顧みないところがあった。疫病にかかる人があると、親戚の者でも感染することを恐れて滅多に近づこうとしないのに、あえて嫌がりもせず、自らその家へ行って、面倒を見て養療を加えたので、そのために助かる人も多かった。」という。
また、母のきよについては、「加美郡藤木戸村の父老斎藤理左衛門の娘であるが、子の理左衛門は親孝行の賞に公より禄をいただき、孝義録にも載せられた人で、これが保己一の叔父にあたる。」
保己一の母の生家は名主の家であり、また良き家風の家であった。この父と母の営んだ家庭の空気は察するに余りあるものがある。若いころの保己一は、多くの人から愛される資質を持っていたことが確かであるが、長じてからも求めずして人の敬愛を得る人格を備えていた。これは、保己一の自覚と努力があったことは間違いないが、少年期までの父母の訓育がその大本をなしていることも事実であろう。謙虚に、誠実に、人のためになろうと働く人間の生き方を、保己一は少年の純粋な感受性で、全身的に学んでいたことがわかる。
保己一は、母がしてくれた物語を一つ一つ順序をたがえずに悉く覚えてしまったこと、父や友達が教えてくれた「いろは」を掌でたちまちに習い覚えてしまったことなども伝えられている。12歳ころまでに、そういう実習を相当積み重ねていたことは疑いなく、後年、江戸で「太平記」一部を暗誦して諸家に出入りし、評判を得ている者があるということを保己一が聞いて、「太平記は全部で四十巻に過ぎない。これを暗誦するくらいのことで名を顕し、妻子を養うことができるのなら、私の生きる道を開くのも、決して困難なことではない」とその頃言ったというのも、相当大きな実績を自ら積んできた体験があるからこそで、そうでなければ「太平記」四十巻を暗誦しろなどと言われたら、まごつくのが普通である。母がどのような物語を語ったかは不明だが、それらの内容にも保己一を人とならしめる要素があったことであろう。大成した保己一の人物から推し量って、12歳段階までの過程の基本的な教育の重要性を改めて思う。 |