少年時代
 ~幼少期~
 

 失明
塙保己一は、延享3年(1746)5月5日、武蔵国児玉郡保木野村(現埼玉県児玉郡)に生まれた。父は荻野宇兵衛、母はきよという。この年は丙寅にあたるので、寅之助と名付けられた。
寅之助は生来、あまり頑健ではなく、眼を患うことが良くあったらしい。母親のきよは、この子を背負って近在の名医として知られた藤岡(群馬県藤岡市)の桐淵という医者に治療のために通った。その医者の診断では「肝の病」でそれが眼にも来ているということだった。「肝の病」というのが事実であれば、多分神経質で自意識も強く、あるいは食べ物も好き嫌いの激しい子供であったのではないか。
寅之助の失明の兆候が表れたのは、彼が7歳の春。母に背負われて藤岡の医者に行く途中の事であったようで、あまりにも苦痛を訴えてなく声が激しいので、神流川の川原でおろしてみると、眼にはっきりと異常な症状が現れていて、それ以後、視力は絶望状態になったという。
 辰之介と名を改める
この年、両親は親類先の人の勧めに従って、寅之助を辰之介と改めた。寅之助の不運は、歳星がその身にかなわないからで、それを変えて辰年生まれにしたならば運も変わるであろうというのであって、生年を二年遅らせて、この時を五歳と数えなおすことにしたのである。またこの年、多聞房という別の名を付けたが、これは同郡の池田村の修験者正覚房の門に入った形をとったもので、これも運が改まってくれればという、親の願いに出るところであった。
保己一は、まだ盲目にならなかった幼いころから、草木の花を好んだという。そんな幼少の頃、野べに出てすみれを数種類取ってきて、庭先に植えたりしたともいう。頑健なたちではなかったので、遊びまわるような衝動はあまり感じなかったかもしれないが、自然の恵みを大事にし、育つものに愛情を注ぐ性情が、すでにこの頃に萌しているようにも思える。失明してからも、花の咲く草木をいろいろ植えて、人がそれを見て喜ぶのを楽しみにしたともいう。後年にも、何か色彩の話が出たときに、花の色についてそれを言うと、保己一は特に喜んで話に乗ったという。保己一の脳裏にあった色彩構成は、武蔵野の自然の彩を基調とするものであったわけであるが、彼は幼少時に、自らそれを豊かなものにする努力をしていたことになる。
 母の死去
保己一は12歳の夏、宝暦7年(1757)6月13日に母を失った。これは保己一にとって実に重要な出来事であった。少年にとっては、愛情の権化というべき母を失うことが、いかに重大な体験であるかは言うまでもないが、片道二里の藤岡まで、彼の医療の為に背負って通ってくれた母、そして今日まで彼にあらゆる教養を注ぎ込んでくれた母に対する責任感ないし義務感のようなものが、さらに衝撃を大きくしたであろう。彼がそういう責任感や義務感を覚える程度に充分に成長していたことは、彼がこの前後に示した医師と行動とが、はっきりと語ってくれる。
保己一は後年、偉大な学者となったが、幼時に失明したため、自分で書いた日記のようなものを残していない。和学講談所を興してからはのちには、文書も文章も伝わるが、これとて自らが執筆したものではなく、口授によるものである。件数もそう多くはない。いきおい、彼の伝記資料は、その周囲の人々が聞き伝えたり、見て書いたりしたものが中心を占める。




TOPページへ BACKします