少年時代 ~幼少期~ |
寅之助は生来、あまり頑健ではなく、眼を患うことが良くあったらしい。母親のきよは、この子を背負って近在の名医として知られた藤岡(群馬県藤岡市)の桐淵という医者に治療のために通った。その医者の診断では「肝の病」でそれが眼にも来ているということだった。「肝の病」というのが事実であれば、多分神経質で自意識も強く、あるいは食べ物も好き嫌いの激しい子供であったのではないか。 寅之助の失明の兆候が表れたのは、彼が7歳の春。母に背負われて藤岡の医者に行く途中の事であったようで、あまりにも苦痛を訴えてなく声が激しいので、神流川の川原でおろしてみると、眼にはっきりと異常な症状が現れていて、それ以後、視力は絶望状態になったという。
保己一は、まだ盲目にならなかった幼いころから、草木の花を好んだという。そんな幼少の頃、野べに出てすみれを数種類取ってきて、庭先に植えたりしたともいう。頑健なたちではなかったので、遊びまわるような衝動はあまり感じなかったかもしれないが、自然の恵みを大事にし、育つものに愛情を注ぐ性情が、すでにこの頃に萌しているようにも思える。失明してからも、花の咲く草木をいろいろ植えて、人がそれを見て喜ぶのを楽しみにしたともいう。後年にも、何か色彩の話が出たときに、花の色についてそれを言うと、保己一は特に喜んで話に乗ったという。保己一の脳裏にあった色彩構成は、武蔵野の自然の彩を基調とするものであったわけであるが、彼は幼少時に、自らそれを豊かなものにする努力をしていたことになる。
保己一は後年、偉大な学者となったが、幼時に失明したため、自分で書いた日記のようなものを残していない。和学講談所を興してからはのちには、文書も文章も伝わるが、これとて自らが執筆したものではなく、口授によるものである。件数もそう多くはない。いきおい、彼の伝記資料は、その周囲の人々が聞き伝えたり、見て書いたりしたものが中心を占める。 |