彦根城の歴史 


 佐和山城からの移転作業
慶長5年(1600)9月の関ケ原の合戦は、東軍徳川家康の勝利に終わり、天下の実権は家康が手中に収めた。この折、戦功のあった井伊直政は6万石を加増され、18万石として近江佐和山城に封じられた。この土地は、家康と戦って敗れ処刑された石田三成が居城としていたところである。
当時、直政は磯山に城を移そうとしていたが、同7年に病没し、嫡子直勝が後を継いだ。だが、直勝は幼君であり病弱でもあった為、これを補佐する重臣たちが直政の遺志を熱心に検討した結果、磯山よりもむしろ東に佐和山、西に琵琶湖を控え、なお三方を平地に囲まれた金亀山(彦根山)が注目された。改めて将軍家康の許しを得たのは翌8年で、ここに着工工事が行われたのである。
標高136ⅿの金亀山に始まった築城工事は、竣工した暁には大坂の豊臣、毛利や島津など西国大名に備える戦略的要素を帯びるため、幕府は公議御奉行に山城宮内少輔忠久、佐久間河内守政真、犬塚平右衛門に命じて工事の監督に当たらせたほか、伊賀、尾張、美濃、飛騨、若狭、越前の7カ国12大名に合力を命じた。
慶長8年に起工された工事は、元和8年(1622)に完成したが、その間20年近い歳月を要したのである。
 二期にわたる大工事の末完成
工事に当たって金亀山上にあった彦根寺、門甲寺は山下に移されたほか、周辺の寺院や大津(坂本)・長浜(小谷)・安土(八幡・観音寺山)等の古城から石を運び、諸国から動員された石工が石垣を築いた。
同9年、鐘の丸が完成したのに続いて、11年には本丸天守の竣工が見られた。そして、その年の後半、井伊家の居城は佐和山城から彦根城に移った。その後も、付随工事はなされたが、以上が第一期工事とされる。
工事は一時的に中断された。再開を見たのは大坂の陣があって後の事である。当時の井伊家は元和元年(1615)に20万石、同3年に25万石に加増されている。
元和2年から再開された工事は、それまでの12藩の人夫を動かしたものとは異なり、領内の人夫を動員して進められた。西の丸出郭の石垣造りについては、安土城の天守造営の経験を持ち、「あふな築」という石垣築を工夫した江州坂本の穴太の職人であったと伝わっている。(彦根市史)
彦根築城を精力的に進めた当主直孝は、寛永9年(1632)正月幕政を預かる地位に至った。幕府に忠勤を励んだ彼は、同11年以後は江戸に在府して公事に尽くし、万治2年(1659)6月28日に病死した。
 井伊直弼
井伊家は明治維新に至るまで彦根藩主として君臨し、領民に慕われたが、代々の中でも13代目の直弼が有名である。
直弼は11代直中の14男として彦根で生まれ、部屋住みの身分として過ごしたが、嘉永3年(1850)直亮が死去したため、直弼が跡を継いで13代藩主となり、掃部頭を称した。安政5年(1858)4月、大老職に就任して早々、強引に日米修好通商条約を結んで、時の尊攘派を激昂させた。これを機に公卿・大名・尊攘派の間で不穏な動きが出たため、直弼は機先を制すべくいわゆる安政の大獄を断行した。
その後も直弼は、先に朝廷が水戸藩に降した密勅の返納を強く迫ったことから、同藩の過激分子を刺戟して脱藩させ、薩摩藩士の過激派に合流させる結果を招いてしまう。そして万延元年(1860)3月3日、大老井伊直弼は、桜田門外で水戸浪士らの襲撃を受けて、首をあげられた、享年46歳。
彦根藩最後の領主は、直弼の次男直憲である。

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