石田家のルーツ
 ~京極家の被官~
 


 源平合戦で活躍した!?
石田氏の系譜については、「霊牌日鑑」の記述が注目されている。これは、三成が父・正継のために京都妙心寺内に建立した寿聖院に伝わる過去帳である。そこでは、正継の父(三成の祖父)を「前陸奥入道清心」、正継の祖父(三成の曽祖父)を「前蔵人入道祐快」と記し、さらにそのルーツは、源平合戦の際、木曽義仲を討ち取ったことで知られる石田為久であるとする。
また、和歌山県有田郡湯浅町楢原にある極楽寺の系図をもとに、正継の父は北面の武士・下毛野氏の後衛であるが、その母方の名字を取って石田と改名したという見解もある。この極楽寺は、三成の兄・正澄の子朝成に始まるという寺院である。
  京極家の家臣だったか?息子
一方、石田家は湖北の守護・京極家の家臣であったとも言われる。丸亀藩京極家の記録「京極家譜」に、被官として石田氏の名がみえるためである。この石田氏の本拠は、坂田郡石田村ではなく、同じ坂田郡内の梓河内村であったと考えられている。この集落は文字通り「梓」と「河内」からなるが、中世の東海道(江戸時代の中山道)に沿う「梓」の集落から南に延びる谷中にあるのが「河内」である。この「河内」の奥には、京極氏の「隠れ城」と伝えられる猪ノ鼻城があり、近くで京極氏の城の守備に当たっていたのが石田氏であったという。
また、「梓」では、京極氏が関を設けて関銭を徴していたことが知られており、関の管理に石田一族が関与していたといわれている。同村の常福寺の過去帳には、至徳3年(1386)から石田源左衛門の家系が連綿と記されており、室町初期ごろ、源左衛門の子孫で正継の曽祖父にあたる人物が、坂田郡石田村に転出したと伝えられている。
また、その一方で江戸時代に作成された、戦国期近江国の土豪リストである「江州佐々木南北諸士帳」には、「石田往」として「石田刑部左衛門」と「石田長楽庵」の二人を挙げている。
後者の「長楽庵」は、能書家として知られた人物で、浅井家の祐筆を務めている。彼らも石田三成の祖先と何らかのかかわりがあるとみられている。




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