人間・土方歳三研究
2.思想と規律
 ~思想~
 


 「尽忠報国」
新撰組、ひいては土方歳三の思想は、結局は浪士組募集に際しての中心スローガンである「尽忠報国」に行きつく。新撰組は浪士組から決別した、いわば浪士組からすれば異質の集団なのだから、何か違う標語を創ってもよい所であるが、結局は「尽忠報国」が生き続けた。
近藤勇が新撰組創立の翌年、文久4年(=元治元年、1864)5月に中島次郎兵衛にあてた書簡中で「尽忠報国」と書いているのは、まだ浪士組募集に応じたときの事情を引きずっているのだと考えられなくもない。しかし、土方が翌年の3月になっても佐藤彦五郎宛書簡で「尽忠報国」の四字を念入りに繰り返しているのは、もう単に浪士組応募が新撰組の原点だということでは済まされないだろう。別のスローガンが必要な段階でありながら、新しい思想的標語が見つからず、古い理念語に拘るしかなかったのである。
 攘夷がスローガンとして生きていた
「尽忠報国」とは端的に言えば、攘夷のために死ぬ覚悟ということである。乱暴な言い換えかもしれないが、結局はそこに落ち着く。浪士組募集の時はそうだった。文久3年初頭に近藤や土方が応募したときは、幕府の募集に応じることと攘夷のために死ぬ覚悟とが一致していた。幕府の本音はともかく、外から募集に応ずるものは幕府も攘夷をすると信じることができた。報国の「国」は日本国で、天皇も将軍も夷狄から日本国を守ることで一致していると思うことができたのだった。
将軍は京都まで出かけて天皇に攘夷を誓う。内輪は大変だったのだが、外面は攘夷で一致していると見えたので、浪士組から離別して京都に残った新撰組も思想的には苦しまないですんだ。「尽忠報国」を自らのスローガンとして掲げ続けることができたのである。
翌文久4年(元治元年)、二度目の上洛を果たした将軍家茂は、公卿たちに痛めつけられた前年とは大違いで、丁重な待遇を受けて政務を全面的に委任するとの勅諚を入手した。この時幕府は天皇の攘夷姿勢に必要以上に譲歩した。朝廷と幕府の合意点を開港容認の線でまとめる条件があったのに、わざわざ鎖国(横浜鎖港)寄りに引き戻したのである。そうやって薩摩藩の京都朝廷に対する影響力を排除し、幕府の主導権を確保した。
家茂が成果を上げて大坂から海路江戸に戻ったのが5月16日。その4日後の5月20日付で中島次郎兵衛宛の手紙を書いた近藤勇は、幕府の方針が単純攘夷ではないことに不満があった。また攘夷を目標とした思想集団である新撰組が京都に留まり続けることにも積極的な意義を見出せていない。この当時はまだ池田屋事件の直前で、新撰組独自の強烈な役割はまた確立していない時期だった。
破たんするスローガン
不徹底とはいえ、この時期幕府がなお攘夷鎖国寄りの方針を掲げているので「尽忠報国」という思想的キーワードには、まだ破綻が生じていなかった。組織の将来にはまだ不安があり、新撰組消滅の危惧を近藤は抱いているのだが、浪士組応募以来のスローガンを維持することには疑問を持たなかった。
破綻は、元治元年8月の英仏米蘭四カ国連合艦隊下関攻撃で生じた。長州が完敗して降伏しただけではない。この戦争強行と長州完敗にショックを受けた幕府は「横浜鎖港」という表向きは掲げ続けてきた方針を放棄した。幕府は京都朝廷との一致点を確保するために維持していた攘夷的政策(条約履行サボタージュ)を完全に捨てたのである。
四か国の下関攻撃をリードしたイギリス公使オールコックの真の狙いは長州ではなく幕府であった。この戦争の乱暴さを咎めてオールコックを召喚したイギリス外務省も、真の狙いが幕府の条約サボタージュを辞めさせることで、その通りの効果があったと理解したとき、自らの非を認めてオールコックに詫びている。
幕府は下関戦争の翌月、元治元年9月の段階で、紛らわしかった鎖国的な政策をすべて放棄した。もう貿易の邪魔はいたしませんと条約締結諸国の外交官たちに確約した。幕府が降伏したのである。
新撰組はそのことにすぐには気付かなかった。元治元年6月5日の池田屋事件以来、新撰組は脚光を浴びて意気盛んだった。7月の禁門の戦争、続く長州征伐の勅命と、思想的に苦しくなってきたことに気付いていないのである。




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