人間・土方歳三研究
1.剣の実力
 ~豪農層だからこそ~
 


 天然理心流道場試衛館
天然理心流三代目の近藤周助は、天保10年(1839)に江戸市ヶ谷に道場試衛館を開いた。当時の天然理心流は、正直言うと道場が乱立していた幕末期においては、ランクの低い無名道場であったといえる。北辰一刀流の玄武館や、神道無念流の練兵館が一流大学とすれば、天然理心流のそれは三流大学に過ぎなかった。
従って、各藩の藩士など比較的高級な武士がこの道場にはいることは皆無であった。勢い、多摩の豪農層に人材を求めることになる。だが、多摩の名主層が江戸の道場に通って剣術を習うことは、時間的にはほぼ無理である。そこで彼らは自宅に道場を作り、近藤周助や勇などから、出げいこという形で剣術を教わったのである。
 多摩の豪農の教養の高さに触れる
豪農をはじめとする名主などは、教養としての文芸にも優れ、多摩郡小野路村寄場名主小島家では、和歌、儒学、狂歌、書道、生花、弓道等を学び、多摩郡日野宿寄場名主佐藤家は、俳句や漢詩等を学んでいる。多摩郡は江戸に近いため、江戸の文人とも交流も多く、小島家では菊地菊城、遠山雲如、大沼枕山、佐藤家では太田南畝などと交流があり、門人ともなっている。このように、名主層には文芸に秀でた人が多かった。
このため、名主宅に剣術指南に訪れた近藤勇、沖田総司、土方歳三などは、自然に文芸上の影響を多く受けたと考えられる。土方家は小島家、佐藤家、本田家と親戚である。多摩郡谷保村の本田覚庵は漢方医で、かつ市川米庵の流れをくむ書家で、土方は同家で書道を学んでいる。
土方には上洛前に書いた「豊玉発句集」や上洛途中で作ったという木曽路の俳句があり、橋本家に贈った「橋本君一子を生むを賀す」という為書のある七言絶句がある。また、佐久間象山に書を頼み、これを佐藤家や小島家に贈っている。




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