人間・土方歳三研究
1.剣の実力
 ~多摩地区の剣術熱~
 


 「武術英名録」
幕末期は、剣術が異常に流行した時期で、剣術の流派は500にものぼったという。その中には一代で滅びた流派が多く、流名も伝わっていないものもあるという。
全国的な規模で言うと、特に関東地区には多くの流派があり、また剣術を習う者が相対的に多かったようだ。
関東で一番剣術人口が多かったのは、真田範之助の編集した「武術英名録」(万延元年 1860年発行)によると、武蔵国が圧倒的に多い。その数は関東全域で633人、武蔵国はこの約半数の309人である。幕府が置かれた江戸があり、武士が多かった影響で剣術を習う者が多かったとも言える。
しかし「武術英名録」には江戸の剣客は含まれていない。真田はのちに「江戸英名録」を出版する予定でいたので、あえて江戸の剣客を除いたのだと考えられる。「武術英名録」の記載の人物は師範やそれに継ぐ腕前の人である。
多摩郡は武蔵国で郡別面積は最大であり、この多摩郡全域を圧倒的に抑えていた流派が、天然理心流である。天然理心流は英名録では、武蔵で46人、相模で16人が記載されている。
この中に土方歳三の名がある。英名録は真田が実際に立ち会い、自分の腕でその技量を確かめて、剣術修業人が教えを乞うような人物を列挙した住所録である。ここに土方の名がある事は、真田が土方の技量を免許級と認めた証拠であろう。
 社会不安が剣術熱を煽る
では、何故関東で剣術が特別に盛んになったのか。その理由は下記のようなものである。
江戸後期の文化年間頃から、無宿や博徒が徒党を組み関東一円に横行した。そのわけは、関東は武州を中心として幕府領、旗本領、寺社領、大名領などが入り組み、そのため支配関係が錯綜して、取り締まりなどに欠陥を生じた。このため、幕府は文化2年(1805)に関東御取締御出役を置き、関東を巡邏させた。
しかし、効果はさして上がらず、文政10年(1827)に寄場取締組合村を作り、協力体制を採らせた。組合村では、中心的な村を親村とし、30カ村位を目安として結成し、親村の名主を寄場名主と呼んだ。寄場名主には、30石以上の豪農がこの任に着き、さらに大惣代名主、道案内などを置き、組合村の取り締り能力を強化した。
豪農は、大惣代名主や小惣代名主などに任命され、村一番の素封家が多く、質屋などを営んでいたために、盗賊などに狙われることも多く、このため自衛手段として剣術を習ったり、或いは用心棒を雇うこともあった。本来、農民が剣術を習うことは禁止されていたが、幕末にはほとんど守られていなかった。
名主の中には、苗字帯刀を許されたものもあり、これは、武芸稽古が公認されていた。また、組合村の役人は、悪人等の捕縛にも協力させられたので、心得として剣術を習うことは必須だった。
八王子千人同心は士分だったので、剣術を習うことは必至義務であった。千人同心には、天然理心流門人が多い。
また、ペリーの来航などによって、攘夷の機運が高まり、物価騰貴による打ちこわしや一揆などの社会不安は、剣術熱に拍車をかけたと思われる。名主層に関わらず、多くの農民や町人らが剣術を習ったことは、当時の流行と考えてもよい。




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