1・土方歳三のルーツ
石田散薬

    石田散薬
武蔵国日野宿石田村に「石田散薬」という薬があった。接骨や打ち身の薬で、他に捻挫、筋肉痛、腕や腰の痛み、さらには切り傷にも効果があるとされている。
原料は牛革草という蓼科の植物で、紫がかった茎に朝顔のような葉がつき、多摩川やその支流の浅川の水辺によく自生した。葉の形が、正面から見た牛の顔に似ていることから牛顔草、牛額草などとも呼ばれる。毎年8月の土用の丑の日に刈り取り、粉末状にして服用した。その製法と服用方法は次の通り。
刈り取った牛革草一貫目(3750g)を、10分の1の百匁までに天日で乾燥させる。これを黒焼きにして鉄鍋に入れ、酒を適量に散布して鍋から取り出す。再び乾燥させて薬研にかけ、粉末状にした。こうして製造されたものを一匁(3.75g)ずつ百等分し、これが大人一日の服用量とされている。
服用の仕方が変わっており、酒で飲めというのだ。
16歳以上の大人は一日に一包を、燗酒一合(0.8ℓ)に混ぜ合わせて飲む。7歳から15歳までの少年の服用量も同じだが、薬、酒ともに2分の1ずつを1日2度に分ける。それ以下の子供は薬を三等分し、一回に二勺の酒で一日に三度服用の事、とある。
だから、大人には人気があった。農作業で痛めた体に薬を飲む。しかも、酒で飲めというのだから、大義名分を持って堂々と酒を飲むことができる。薬効の方は別として、酒好きには何とも言えない薬だった。
武蔵国という土地柄は、鎌倉武士の伝統を受け継ぐことから、古来より武芸が盛んな土地だった。特に多摩地方は、八王子を中心に徳川家康以来、甲州口の守りとして千人同心が編成されており、彼らにとって武芸の修練を欠くことは許されない。加えて、嘉永6年(1853)のペリー来航によって武芸熱があおられ、農民層が市内を握ることは珍しくなかった。彼らがまた、打ち身の薬として石田散薬を愛用したことによって、需要が広がった。
その後、明治、大正を経て第二次大戦後まで製造されていたが、薬事法の改正により、成分分析のために薬の現物を添付して、製造販売の許可申請を出したことがある。その分析結果は次の通り。
「無効、無害、であるから、売買物としては許可できないが、信ずる人達に分与するのは差支えない。」
薬効はなかったというのだ。そのため、いつの間にか製造は中止されてしまった。結局、この薬の特徴は「酒で飲む」点にあった。酒飲みに愛された薬という点で、大いに需要があったということになる。
    土方家の家伝
宝永年間(1703~1711)からこの薬を製造販売していたのが、日野石田村の土方家であった。
当時の石田村には21軒の農家があり、その多くが土方姓を名乗っていた。村人の菩提寺であった石田寺には、今も同姓の墓碑が数多く並んでいる。そのなかでも「お大尽」と呼ばれた土方家は富農で、農耕馬二頭を飼い、作男の4,5人を常に雇っていた。そのため土用の丑の日には、村中が総出で牛革草の刈り取りに当たったという。
現在も土方家には、行商用の黒いつづらの売薬箱が伝わっているという。土方歳三も青年期の一時期は、このつづら箱を背負って行商に歩いたといわれる。
「村順帳」という、明治16年の行商先の地名と顧客を記録したものが、現在も土方家に保管されている。
そこには日野市を中心として、八王子、府中、調布、武蔵野、福生、町田、西東京などの各市内の町名、都内では世田谷区内の高井戸、代田橋などが記され、埼玉県では川口、入間、所沢、神奈川県では川崎、横浜、厚木などの各市の町名もある。さらに、甲州街道沿いに山梨県の犬目から大月までがその販路として記録されている。
明治期に販路が拡大された可能性もあるが、歳三もこれらの宿場や村々の多くを行商したに違いない。
売薬箱には石田散薬の他、姉ノブの嫁ぎ先である日野宿寄場名主の佐藤家で製造する、肺結核や肋膜炎の内服薬「虚労散薬」が詰められていた。後に肺結核を患う沖田総司も常用したという。
行商の際、歳三は必ず剣術道具を携えていた。得意先に薬を卸す一方で、道々の道場で剣を習うためだった。
 





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