支配体制と統治政策
 ~関白就任~
 


 将軍就任を断念?
秀吉の天下統一はもちろん、彼の卓越した武力と智略によるところが大きい。だが、それだけでは国家統治者としての地位を保てるはずがない。政権の組織化・集権化とともに、諸勢力を圧倒し、これを心服させる権威がなくてはならない。その一環として進められたのが関白就任である。
これについては、実現できなかった将軍就任の代替策という見方が今も根強い。つまり、秀吉が亡君信長の遺児をさし置いて天下に号令するためには、織田家との従来の身分関係を逆転させる必要があった。そこで秀吉は、前将軍足利義昭の猶子となって将軍に就任することを策したが、義昭に拒絶されたため、将軍就任を諦め関白任官への道を選んだというのである。
しかし、果たして秀吉が義昭の猶子(しかも、秀吉の方が2歳ほど年上である)になってまでして、将軍就任を熱望したであろうか。信長は、一時将軍宣下と幕府の開設を望んだが、新興武家に警戒の念を持っていた正親町天皇の拒絶反応にあって、幕府創設路線を断念したことがあった。こうした前例があるにもかかわらず、秀吉が同じ轍を踏むとは考えられない。
  公家社会へのあこがれ息子
備中足守の「木下家文書」の中に、興味深い文書が含まれている。それは、秀吉が従二位に叙した天正13年(1585)
3月10日付の位記(辞令)と、同じく従一位に叙した同年7月11日付の位記の中に「征夷大将軍従三位守権大納言臣 義昭」として、足利義昭の名が記されているのである。
これは理解に苦しむのだが、信長の死後に義昭は征夷大将軍の地位を回復、もしくは信長に追われたあとも征夷大将軍の地位を保持しており、朝廷もこれを公認していたのであろう。当然、秀吉がそれを知らないはずがない。むろん義昭の将軍職にはもはや実権が無く、全くの空名に等しいが、義昭の将軍としての地位は世間の認めるところであったのかもしれない。
従って秀吉の関白任官が、なり損ねた将軍職の代替策とは考えにくい。秀吉は将軍か関白かという二者択一を迫られる前に関白職を望んでいたように思われる。
朝廷が武家政治を嫌い、義昭のような空名に等しい将軍をこそかえって歓迎していた公家社会の空気を秀吉は感じ取っていたであろう。それに秀吉は、毛並み、出自が悪かった。だからこそそのコンプレックスを克服しようという気持ちも強く、朝廷や公家社会に対するあこがれの念も強かった。官位の昇進を無上の喜びとしただけではなく、聚楽弟の同じ屋根の下に後陽成天皇と5日間も寝食を共にして親類のように振る舞い、大村由己に書かせた「天正記」の中では、天皇の御落胤であるかのような宣伝までさせていた秀吉である。

  功名な公家対策息子
ただし、秀吉は既成の公家社会を無条件で容認し、これに埋没していたわけではない。天正14年(1586)の12月、秀吉は太政大臣となり、同時に豊臣の姓を賜って改姓している。この秀吉の改姓の意図は、秀吉自身を五摂家と同格以上に位置付けようとしたからであろう。そして豊臣姓を称することは、源平藤橘という旧来の公家社会の門閥意識を打破し、秀吉を中心とした新しい公家社会づくりへのスタートを宣言したものといえるのである。
秀吉は天下統一に際し、関白太政大臣という自己の肩書をフルに活用した。天正16年の聚楽第行幸の際には、この盛儀に参加した27名の諸大名らに、朝廷への忠誠とこれを補佐する秀吉への臣従を誓わせた起請文を提出させ、まだ同18年の小田原征伐に当たっては、宣戦布告書に勅命を堂々と掲げ、国家の為の聖戦として正当化していた。
将軍職より関白職を選んだ秀吉は、自己の権威づけのために皇室の威光を重んじた。しかし、その秀吉が認めていた皇室の所領は、天皇の3万石と上皇の1万石、そして公家社会の全てを合計しても約10万石である。この数字は、秀吉の蔵入地の約20分の1に過ぎない。




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