秀吉影のネットワーク
 ~伝説の前半生~
 


 黄金の時代の象徴
長い日本の歴史の中で、最も華やかな時代、それは戦国時代、中でも秀吉が天下統一を果たした安土桃山時代は、まさに黄金の時代とも呼べる時代である。このバイタリティに溢れた豪華絢爛たる「黄金の色の時代」の色調を創りあげた指導者が豊臣秀吉である。
実力主義、能力主義の戦国の世に、名もない身分から出て天下人にまで上り詰めたバイタリティ。心底から陽気で、あらゆる面で人間的であったそのふるまい。豪快な生きざま。もちろん、傷もいくつかあるのだが、まさに庶民の夢の具現者が秀吉だったのだ。
だが、一方で、秀吉ほど謎に満ちた最高権力者は歴史上に存在しない。まず第一に、その出身がいまだにはっきりしていないのだ。伝説的な資料はあるものの、彼の素性を明らかにする確固たる資料は見つかっていない。
  伝説の前半生息子
その前半生も全く謎に包まれている。秀吉の名が良質な史料によって確かめられ、存在そのものがはっきりと認められるのは永禄8年(1565)のことである。この年11月3日に織田信長が出した知行安堵状の添状に、初めて木下藤吉郎の名が登場するのだ。
この時秀吉は28歳。極端に言えば誕生からこの日までの秀吉の姿は、伝説の中にのみ存在するということになる。
それでは、伝説の前半生とはどのようなものであったのか?
秀吉は天文6年(1537)尾張国中村の百姓、木下弥右衛門の長男として生まれ、日吉丸と名付けられた。7歳で父を失い、継父筑阿弥と折り合いが悪いため、地元の光明寺に門弟として入れられる。だが、あまりの腕白ぶりにじき追い出され、家へ戻るわけにもいかず、仕事を求めて各地を転々とする放浪の少年時代を送ったのだった。
15歳の春、そんな倅を見かねた母なかが、亡父の遺産一貫門を渡し、それを木綿針に替えて行商をしながら東国へ下る。その途中、矢作川の橋の上で野伏の頭領蜂須賀小六に出会い、やりこめたことがもとでその配下となる。だがこのエピソードは史実ではない。

  信長に仕える息子
日吉丸はさらに放浪生活を続けた挙句、遠州浜松の頭陀寺城主・松下加兵衛に拾われ、武家奉公を始める。その熱心な奉公ぶりに破格な引き立てを受けるが、そのために同僚にねたまれ、居ずらくなって出奔。故郷の尾張へ戻る。天文23年(1554)秀吉18歳のときである。
以後、秀吉は尾張統一に奮戦中の織田信長に仕える機会を狙い続け、ついにその小人(雑用係)の一人に加えてもらうことに成功する。遠州から戻ったその年、信長の小人頭を務めていた幼友達の一若の口利きによって仕官したという説が有力だが、「甫庵太閤記」によれば永禄元年(1558)9月、路上で信長に直訴して仕官に成功したという。
いずれにせよ、伝説に頼っても、秀吉は8歳から18歳ないし21歳までの大部分を放浪の中で過ごしている。つまり、その間のほとんどが謎なのである。




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